医科2020.06.21 講演
HIV感染症に関する疫学的および基礎的研究
[第52回総会記念講演より](2020年6月21日)
神戸大学大学院保健学研究科パブリックヘルス領域国際感染症分野 亀岡 正典先生講演
HIV感染症の現状について
HIV感染症/エイズの治療法として複数の抗レトロウイルス薬剤を併用する多剤併用療法(cART)が確立され、HIV感染症は少なくとも先進国においては死の病ではなく、制御可能な慢性疾患と考えられるようになりました。しかし、HIV感染症は現在も世界的な公衆衛生上の大きな問題とされ、特にアジア・アフリカ地域の開発途上国において、エイズは現在も主な死亡原因の第一位とされます。2019年のWHO報告によると、2018年の段階での全世界のHIV感染者数は約3,790万人、年間の新たな感染者は170万人、死亡者数は77万人とされています。世界的に新規感染者は減少傾向にありますが、開発途上国では感染者の急増に併せて、抗レトロウイルス薬剤の供給不足など、現在も深刻な状況が続いていますし、日本においてもHIV感染拡大が継続しています。さらに、HIV感染者はその健康維持とエイズ発症予防のため、一生涯cARTを継続する必要があり、HIV感染症を完治する方法は未だ見つかっていません。
このような背景の下、神戸大学大学院保健学研究科では「マクロからミクロな視点まで網羅する感染症対策研究」をめざして、開発途上国におけるHIVの流行推移や伝播状況、cARTの有効性や薬剤耐性ウイルスの出現状況などを把握するためのフィールド調査と、日本国内の実験室において新たな治療法を開発のための基礎的研究を両立させて実施しています。
今回は、ネパール大地震がcART治療効果に及ぼす影響に関する調査研究とHIV感染症を完治する方法を開発するためのゲノム編集技術CRISPR/Cas9システムを用いた基礎的研究について紹介します。
ネパール大地震がHIV感染者に及ぼす影響
2015年4月にネパールで起きた大地震は、8,700人以上の死者と22,000人の犠牲者をもたらしました。また、医療施設も大きなダメージを受け、医療保健体制に支障をきたしました。このネパール大地震が、HIV感染者の治療法であるcARTの治療効果に及ぼす影響について調査を行いました。また、ネパールで流行するHIV-1のウイルス遺伝子型について解析しました。具体的には、HIV-1に感染した被災者305人を対象として質問票による調査を行い、震災後のメンタルヘルス(PTSD)、HIV感染スティグマ、HIV感染の開示状況や社会的支援状況などと服薬アドヒアランスの関連性について解析しました。また、治療に失敗した感染者39名の末梢血試料よりHIV-1遺伝子部分断片をPCR法を用いて遺伝子増幅して、薬剤耐性変異の出現状況とネパールに流行するHIV-1亜種を調べました。さらに、主な流行亜種であることが予測されたサブタイプC型亜種のウイルス遺伝子については、詳細な分子系統解析を行いました。
質問票による調査の結果、大地震により調査対象者の5.2%が家族を失ったこと、調査対象者の約44%が地震によるPTSD症状を示し、約50%がHIV感染スティグマを経験したことが分かりました。
一連の統計解析により、年齢、信仰する宗教、住居の場所、HIV感染の開示状況、PTSDおよび隣国インドによる国境封鎖がcARTの服薬アドヒアランスと有意に関連し(図1)、信仰する宗教とHIV感染スティグマが治療失敗と関連することが分かりました(図2)。また、PTSDとcART服薬アドヒアランスの状況は、災害後6カ月から12カ月までに有意に改善していることが分かりました。さらに、ウイルス遺伝子解析の結果、治療失敗者に由来する末梢血試料の約22%に薬物耐性変異が検出されました。
ネパールに流行する主なHIV-1亜種はサブタイプC型亜種(84%)ですが、東南アジア諸国や中国に流行するCRF01_AE型(8%)も一部の試料から検出されました。さらに、ネパールのサブタイプC型亜種はインドやアフリカ南部の株と密接に関連していること、ネパールへのサブタイプC型亜種の侵入は1980年代半ばと推定されました(図3)。
今回の解析により、HIV感染スティグマを排除するための一般市民に対する啓発活動や、PTSDを減らすために震災にあったHIV感染者に対する心理・社会的カウンセリングを促進することは、ARTの服薬アドヒアランスを維持し、薬物耐性ウイルスの出現を予防するのに貢献することが示唆されました。また、治療失敗者の一部で薬物耐性ウイルスが出現していること、ネパールの主な流行株であるサブタイプC型亜種は1980年代半ばに複数回インドからネパールに侵入し、その後10年間で感染者数が急増したことが示唆されました。
HIV-1の調節遺伝子を標的とするウイルス複製阻害
ゲノム編集法CRISPR/Cas9システムは、標的遺伝子部位に配列特異的なゲノム編集を可能とする技術ですが、この技術をHIV-1感染細胞中のウイルス遺伝子を破壊するために応用できるか検討しました。ゲノム編集を行う標的ウイルス遺伝子として、HIV-1の複製に必須の調節遺伝子tatおよびrevを設定して、主要なHIV-1亜種の間で高度に保存されていて、かつ、同システムで特異性にゲノム編集を可能とする6種類のガイドRNA (gRNA)を設計しました。Cas9とgRNAを発現するレンチウイルスベクターを作製して、調節遺伝子産物であるTatあるいはRevを安定的に発現する培養細胞に導入したところ、TatおよびRevのタンパク質発現や機能を著明に低下させることが分かりました。一方、非特異的反応による宿主細胞遺伝子の意図しないゲノム編集(オフターゲット効果)は認められないこと、Cas9とgRNAの発現は細胞生存率に影響を及ぼさないことが分かりました。さらに、HIV-1が潜伏あるいは持続感染した培養細胞にHIV-1調節遺伝子を標的とするCRISPR/Cas9システムを導入すると、潜伏感染細胞からのサイトカイン依存的なHIV-1再活性化や、持続感染細胞からのHIV-1放出を著明に抑制することが分かりました。また、6種類全てのgRNAを同時に遺伝子導入することで、感染細胞からのウイルス産生はほぼ完全に阻止されました(図4)。これらの結果より、HIV-1調節遺伝子tatおよびrevを標的とするCRISPR/Cas9システムは、HIV感染症の治癒を達成するための有望な手段となり得ることが示唆されました。
これらは試験管内での組織培養系で得た結果に過ぎませんが、今後、実際に生体内にこの技術を応用可能かを検討するための研究を進めていきます。
(6月21日、第52回総会記念講演より)
図1 cART服薬アドヒアランスと関連する要因
図2 治療失敗と関連する要因
図3 ネパールに流行するHIV-1サブタイプC亜種のネパールへの侵入時期の推定
図4 CRISPR_Cas9システムによるHIV-1再活性化の抑制