2012年6月15日(1689号) ピックアップニュース
東日本大震災から1年 被災地訪問記
2011年3月11日の東日本大震災から1年となる3月20日、21日に、広川恵一協会理事、薬剤師の長光由紀氏、板倉弘明氏、看護師の廣川秋子氏が、岩手・宮城・福島の被災3県を訪問した。長光氏と廣川氏のレポートを掲載する。
(写真はすべて長光氏撮影)
医療者としてできることを考えた
伊丹市・薬剤師 長光 由紀津波の跡が痛々しい介護施設「ヨッシーランド」。入所者36人が亡くなり、看護師1人が行方不明のままだ
雪の積もる花巻空港から三陸海岸へ。22メートルもの高さの津波が押し寄せた大槌町で、昨年日常診療経験交流会の講師として、神戸へ招いた植田俊郎先生の仮設診療所を訪問。横には仮設薬局も建っていた。これからこの小槌地区が先生方の地域医療の拠点となるようだ。
線路が錆びた三陸鉄道を見ながら陸前高田市へ。被災した県立高田病院、職員寮も4階まで津波に襲われ、その跡がくっきりと見えた。
ようやく病棟も稼働し始めた仮設の県立高田病院へ。コンパクトながら診察室が並び、薬局へのFAX無料送信コーナーもそろった待合室。奥様を津波で亡くされながらも病院の医療チームを守り、地域のための診療を続けられた石木幹人院長の気迫が伝わってきた。
病棟も稼動し始めた仮設の県立高田病院
泉質の変化や建物被害もあったが、風評被害が甚大で湯本温泉の宿泊客は原発工事関係者のみとなっていた。そんな中、訪問直前(3月17日)に唯一旅館として一般客の受け入れを「新つた」は再開された。他のホテル・旅館がまだ一般客の受け入れができていないことを、女将さんは一番つらく思われているそうだ。
翌21日、原発事故の警戒区域にかかるため、本来30分ほどの距離を東北高速道路経由で大きく迂回し、全村避難中の飯館村を通り、3時間近くかけて南相馬市へ。到着した大町病院で、猪又義光院長と藤原珠世看護部長から震災時の病院の様子、その後のボランティアの活躍等紹介していただいた。
震災翌月に業務再開を猪又院長が決断された時、全ての物資流通が滞った状況だった。患者への薬提供に、以前より連携中の地域薬剤師と協議し、医薬品確保と卸業者の流通も考え、7日分ずつ処方箋を発行することで再開された。大変なこともあったが地域全体の薬局薬剤師と交流が深まり、現在も地域住民に支えられ種々行事を開催されている。
その後、津波で入所者36人が亡くなり看護師1人が行方不明の介護施設「ヨッシーランド」を訪ねた。生死の境目はここと示せる、白壁に残った津波の跡が痛々しかった。
21日午後「相馬野馬追」祭りで有名な国道を仙台へ。立ち寄った店では地元産牛乳使用で人気だったアイスクリームが、「北海道産牛乳使用」と掲げないと売れないと嘆かれた。放射線の数値が下がっても、原発事故による地元の方々の苦しみは癒えない。
途中、盛り土の上に作られた自動車道の右と左では全く違う世界が広がる。海側は津波に襲われ水浸しの地域、山側はのどかな田園風景。偶然自動車道が防波堤となった。
仙台空港近くで車返却時、スタッフが呟いた。「自然はすごい! 潮水に浸かったのに仙台空港の周りに今年も草が生えてくる」地球上では短い人類の歴史、もっと長く生き抜いてきた植物にはかなわない。
駆け足での被災地訪問だったが、医療者として多くの方々と手を取り、もっと弱い立場の方々に手を差しのべなければならないと感じた。
最後にこの機会を与えてくださった広川先生、全行程を運転してくださった板倉先生、ずっと一緒にいてくださった廣川秋子さん、ありがとうございました。
看護師の役割考える機会に
西宮市・広川内科クリニック看護師 廣川 秋子
原発から30㎞に位置する大町病院
猪又義光病院長、藤原珠世看護部長から「復興への軌跡」というテーマで震災後1年の経過を聞かせていただいた。
大町病院はもともと188床であったが、12年3月現在、稼働しているのは3分の1の60床ほどである。その理由の一つに看護師不足がある。震災、原発事故で不本意にも現地を離れなければならなかったスタッフも多くいる。
病院再稼働後、看護部長はそういった看護師たちの遠方の転居先を訪問し復職を呼びかけた。看護部長が直接足を運ぶということに、これまで築かれてきた、震災で絶たれるものでない強い結びつきを感じた。一方で、原発から30キロメートルという地点で復職を呼びかけること自体に、当初大きな葛藤があったことも強く感じる。
大町病院は現在、常勤の看護師だけでなく、短時間勤務・短日勤務の看護師も積極的に受け入れている。そこからは切実な看護師不足とともに、病院側の柔軟な受け入れの姿がわかる。
震災直後から医療関係者、地域住民、ボランティアなど多くの人が出入りし、病院が主体となって力を合わせてやってきたことが、人を受け入れる態勢づくりとその自信になっていることが感じられた。また、その経験や呼びかけがあちこちで情報発信され、応援の輪が広がっていく様子も伝わってきた。
関連福祉施設の損壊と利用者・職員の犠牲があり、情報が錯綜する中で、患者移送の手配や関連施設への応援要請、病院再開への決断など、院長が先頭に立って現場を指揮された。
即決即断で物事をすすめなければならない中で、院長が診療再開の意義を強く訴え、方針を打ち出すことが、多数の人間を結び付け同じ方向に導くもととなっていたように感じる。そのリーダーシップが病院機能の回復という大きな目標の中で、スタッフを孤立させずにそれぞれに役割と責任を与えることになったと思う。それは現場の看護師にとって周辺の状況が変化しても目の前の出来事に集中して取り組むための土台となったと思う。
震災でこれまでの生活や仕組みが破綻した状況の下で、いのちと暮らしを最優先に奮闘した大町病院は地域の病院として、そのあり方を示した。看護師は混乱の中で試行錯誤しながら目の前の課題に取り組み、その経験の積み重ねで柔軟な現場看護を作り上げてきた。
大町病院は、実践を通して看護師が得てきた知恵や経験が生かされてきた現場であり、その中での看護の力強さ・創造性を実感した。その体験を伝えていくことは、看護師の役割の一つである。病院を動かす力となっている院長・看護部長はじめスタッフの方々の中に職業意識と倫理観を学ばさせていただいた。
このたび貴重な時間をいただき震災1年の軌跡を聞かせてくださった猪又病院長、藤原看護部長に感謝いたします。