2013年1月05日(1707号) ピックアップニュース
インタビュー「ひょうごの医療」豊岡市但東町 新田誠先生 弱者に寄り添い住民と共に
【にった まこと】1929年生まれ。46年京都府立医大入学。55年同大卒業、第2内科入局、和知診療所(京都府和知町)赴任。58年札の辻診療所所長。66年出石郡但東町にて高橋診療所を開業。12年3月末までの「赤字を出さないで運営する責任を担う」という所長職は辞退して、4月からは年中無休24時間対応する常勤嘱託医師となった。
〈「但東の健康と医療を守る会」と高橋診療所〉82年結成。会長は新田誠先生。地域住民の健康を住民自身で守っていくための諸活動に取り組みながら、高橋診療所の運営責任を担ってきた。診療所は82年町立に、自治体合併により05年豊岡市立に。12年に守る会が診療所運営から撤退、市の直営に。
ガリ版で「学生起業」
辻 先生はもともとは大阪・天王寺のご出身だそうですね。新田 そうですが、日中戦争が始まる頃の小学1年生の時に、母方の実家の和歌山に転居しました。親父は染め物職人で、私が5年生のときに腸閉塞で亡くなりました。オペは成功したのですが翌日あっけなく死んでしまい、そのことが医療を志すきっかけの一つになったとも言えます。
辻 若くしてお父様を亡くされ、ご実家は大変だったことでしょう。
新田 とにかく貧乏で、借金取りが来て親父の葬式も中断したくらいです。私も朝夕の新聞配達にタイプライター屋の集金、家の手伝いと、学校へ行くどころではなく、授業には半分しか出られませんでした。終戦の翌年に京都府立医大に入学し、ガリ版刷りのアルバイトをして家に仕送りをしました。最初は講義ノートを作って売っていたのですが、印刷技術を磨いているうちに、受注先が京都中央郵便局や市役所、鉄道会社などと広がり、手が足りないので逆に自分がアルバイトを雇いました。
辻 へぇ、今で言う学生起業家ですね!
新田 学生運動や労働運動にものめり込んでいましたので、ここでもガリ版の技術が生きました。まぁ医学生というよりまるでガリ版職人でした(笑)。
京都と但馬で住民参加医療
聞き手 辻 一城理事
新田 医大時代は戦後の混乱のただ中で、多くの国民が生活に困窮していました。国民皆保険制度がまだなく医療も満足に受けられません。その中で志ある人たちが「差別のない誰もがかかれる医療機関をつくろう」と立ち上がりました。私もその運動に共鳴し、京阪神地域を走り回って診療所設立資金集めや医師・看護師探しに奔走しました。わざわざ安い給料で貧乏人を診ようという医師は少なく苦労しましたね。
辻 すごい。戦後の厳しい状況とはいえ、誰もが新田先生と同じことをできるわけではないですよ。先生をそこまで駆り立てたものは何だったんですか。
新田 当時、在日朝鮮人や被差別部落の人々の生活はとりわけ大変なものでした。小さい頃はその子どもたちと付き合うことが多く、私も親父が死んで家は貧乏でしたが、それ以上の厳しい現実をずっと目の当たりにしてきたのです。医大卒業後は朝鮮人のための診療所である「札の辻診療所」(京都市南区)の所長となりました。自分でノコギリを引いて医院建設もやり、朝鮮語で診療しながら8年間勤めました。
辻 弱者に寄り添いながら、住民と共に地域医療をつくりあげていく―。現在に至るまでの先生のスタイルですね。京都を離れ、但馬に地域医療の場を移されたのはなぜですか。
新田 医大生のときに京都府立医大公衆衛生学教室に顔を出すことが多く、兵庫県但東町へ出張検診している話はよく聞いていました。「高橋地区が医師不在で困っている」と聞き、京都での医療機関運営が一段落したこともあり、これまでに培った住民参加による医院運営・地域医療を医療過疎の但東町で実践しようと決意したのです。現地視察した後に京都からトラックで材木を運び、ここでも自分で診療所を修繕して、1週間で開業しました。
辻 電撃赴任ですね(笑)。無医村に医師がやってきて、住民からも歓迎されたでしょう。
新田 それが、そうでもないんです。住民や行政からは「働きざかりの若いのがこんな僻地に来るなんて、いわくつきの医者に違いない」「どうせすぐに逃げ出すだろう」と不信の目で見られました。加えて、地方ならではの保守的な雰囲気や但東町内部の地区同士の対立などもあり、当初は苦労の連続でしたが、ようやく赴任16年後に「但東の健康と医療を守る会」の結成までこぎつけました。
カルテは歴史書
辻 但馬に来て46年、ひとりの患者さんの半生を見てこられたわけですね。新田 そうですね。カルテは人によっては重さが1キロにもなり、他の医療機関へ診療情報提供書を書くときなどは2時間くらいかかりますよ。
辻 2時間ですか! まさに患者さんの「歴史書」ですね。
新田 ただ、生まれてから死ぬまでの一生をみることは不可能です。私は常々、親子3世代を診たいと思っています。親と子、あるいは兄弟・姉妹などの肉親関係、人間関係に注目するよう心がけています。
辻 私は小児科医で、都市部なら地域に他科の先生がいますが、僻地では一人で多岐にわたる診療科を担わないといけないので大変でしょう。
新田 その患者を自分で診ることができるのか、他へ送るべきなのかの見極めが大事ですね。それと、子どもが発熱で来たときなどは、若いお母さんに「しんどそうでもテレビに反応すれば大丈夫ですよ」とか、「脱水の具合はこうやって測りましょうね」と教えながら診察するようにしています。子どもの健康状態について基本的なことでも育児書に載っていないことが案外多いんです。
辻 情報過多の時代ですから、インターネットなどを見て心配になって来院される親御さんがうちにもよく来られます。医師と直接話をすることで、お母さんたちも安心できますね。
新田 そうなんです。単に病気を診るのではなく、世間話などをしながら、来院の背景や本当の目的を探るように努めています。たとえばお年寄りでは、「息子の嫁の作る料理が脂っこいけど本人には言いづらくて...。先生から油はひかえるように言ってもらえんやろか」などの嫁・姑関係や、「昨日のテレビでガンの特集をしていたけど、私は大丈夫やろか」という不安など、ポロっと本音が出てきます。最近は、医師が電子カルテの入力に精一杯という傾向があるようです。患者に向き合い、患者自身がしゃべった言葉でカルテに書き込むということが大事だと思うのです。
役割大きい開業医
雪の降る診療所前で
新田 一番感じるのは、地域医療における開業医の役割が、世界的にみても特異な発展を遂げてきたということです。多くの国では地域医療を担当するのは行政ですが、日本では開業医が極めて大きな役割を果たしてきました。また、開業医が医師会と協会・保団連それぞれに入会しているということも特徴です。
国民皆保険制度のもとで開業医が果たしてきた役割と協会・保団連が発展してきた歴史的必然性。これを保団連役員と事務局が力を合わせて研究し、世界に発信してほしいですね。協会の良さは、役員と事務局がお互いの役割を尊重し仕事ができることです。この良さを生かすためにも、役員が事務局の情報などからよく学ぶ姿勢が大切です。事務局も力量を常に高める必要があるので、年に一度、協会事務局の皆さんに交代で但東町へ来てもらい、合宿研修もしています。
辻 協会への貴重なメッセージもいただき、本日はありがとうございました。
インタビューを終えて
医師・協会員の大先輩である新田先生との対談は貴重な経験でした。厳しい境遇、波瀾万丈の医学生時代を経て、高橋地区の医療に46年間一人で尽くされた先生の優しい笑顔が印象的でした。到着時は晴天だった但東町、数時間後には車に30㎝もの雪が...!(辻)