2015年2月05日(1773号) ピックアップニュース
インタビュー・戦後70年をふり返る
住民とともに社会保障を改善
神戸医療生活協同組合 名誉理事長
湧谷 煌先生
【わくや あきら】1926年生まれ。1954年兵庫県立神戸医科大学卒業、56年板宿診療所(現在のいたやどクリニック)所長、82年診療所を病院化し、板宿病院院長、86年神戸医療生活協同組合理事長、04年同名誉理事長
徴兵を避けて徳島医専へ
山中 私は、数年前から協会活動に関わることとなった新米で、大先輩からご経験をうかがえればと思っています。先生は、医学生のときに敗戦を経験されていますね。湧谷 ええ。私が生まれたのが1926年。治安維持法が制定された翌年で、戦争に突き進みつつあるときでした。医師だった父の仕事の関係で、小学校は、北海道・群馬・東京など毎年転校し、5年生で広島に来て中学校を卒業するまで、7年間を広島で過ごしました。小・中学校は、軍国主義教育の真っただ中でしたね。校舎は兵舎と同じ構造で、学校には陸軍の専任の配属将校がいて、軍事訓練をするんです。三八式歩兵銃を持たされて、実弾射撃までさせられました。
中学校卒業後、進学を考えたとき、当時文系の大学生は20歳になると徴兵されたので、それが嫌で理系に行こうと猛勉強して、1943年に徳島医学専門学校(徳島医専)に入学できました。軍医なら卒業しても将校扱いでしたから。33倍の難関の試験に合格できたのは、試験科目に苦手だった数学がなかったおかげだと思います(笑)。もし、広島にいたままだったら、きっと原爆を受けていたでしょう。
山中 戦争末期に医学を学ばれたのですね。
湧谷 徳島医専は、軍医養成のためにその年に急きょ新設された学校でした。一般的な医学教育が主で、軍事教育の記憶はあまりありません。ただ、戦争が激化するなか設備も資源も不足しており、病院は徳島市の病院、学校は小学校中学校の校舎を使うという状態で、満足に勉強できる環境ではありませんでした。空襲で徳島市内が焼け野原になり、市内には何の罪もない人たちの死体が散乱していて無残でした...。校舎も焼けてしまい、空腹に悩まされるなか、1945年8月の敗戦を迎えました。
敗戦直後の神大で学生運動
聞き手 山中 忍理事
湧谷 戦争が終わり、教育制度も新しくなり、徳島医専は徳島高等学校・徳島医大となるなか、徳島に残るか、他の医大に行くかとなり、「田舎はいやだ」と思いまして(笑)、翌46年に兵庫県立神戸医科大学(現・神戸大学)予科1年に入りました。
山中 戦後直後の医学部はどんな雰囲気でしたか。
湧谷 学生運動が盛んでしたね。全学で1週間ストライキを行って、全面勝利したこともありました。大学には、浦井洋先生(元衆議院議員・元協会理事)、口分田勝先生(故人・元協会理事)らがおり、社会医学研究会という研究会で、社会科学の勉強を皆で熱心にしたものです。
印象的だったのは、「ビラはり事件」です。当時、大学長の正路倫之助先生は、満州で中国人捕虜らで生体実験を行った731部隊に関係していた人物でした。彼が大学に、731部隊の関係者を、生理や細菌、病理など基礎学科の教授として招聘していたのです。彼らが戦争中に行っていたことを、上下2メートル、左右10メートル以上ある巨大なビラに書いて、病院と学部の間の道路の石垣に張るという、無茶なことをやりました。
山中 非常に勇気がいる行為ですね。
湧谷 いえいえ。誰の仕業か分からないだろうと思っていたのですが、私の字が下手で特徴があったせいで、すぐにばれてしまって(笑)。学長に呼びつけられ「学生の本分は勉強だから、在学中はこんなことをしてはならない。卒業後は好き勝手にしてよい」と、懇切丁寧に諭されました。
昨年、保団連・協会でもハルビン視察ツアーと報告会を開催されていましたが、医師の戦争責任が今でもうやむやになってしまっていることは問題ですね。
板宿診療所長として住民と運動つづける
山中 その学長の言葉通りというのでしょうか、卒業後は、板宿診療所で診療されました。湧谷 1年間は、神戸市内の病院に勤務していましたが、その頃はお金がないと必要な医療が受けられない。心づけを出すのが当たり前で、払えない生活保護の方は退院させろと言われてね。小さくても心温かい働き場をと考えていたとき、医局の壁に「板宿診療所の医者を求む」というビラがあり、大学のとき、当直へ行っていたこともあり、56年に転がり込んだのです。
山中 板宿診療所は、他の医院と何が違ったのですか。
湧谷 生活保護の方や労働組合の人々が集まって、自分たちの診療所をつくろうと、皆が出資して運営した民主診療所だったということです。この年には、無差別・平等の医療の実現をめざし、このような医療機関が集まり、全日本民主医療機関連合会(全日本民医連)が結成されています。
山中 すばらしい理念です。
湧谷 しかし、現実の運営は厳しいものでした。患者さんが少なく、給料も遅配欠配が当たり前。結局、不渡りが出て倒産となり、58年に、同じ民主診療所だった神戸協同診療所(現在の神戸協同病院)に統一経営という形で助けてもらいました。このことから、(1)医療内容がよくないと患者さんは来ない、(2)経営を無視して医療は成り立たない、(3)社会保障の充実、(4)診療所自身を支えていく組織の重要さの四点を教訓とし、その後は軌道に乗りました。患者さんを待つだけではだめだと、往診も積極的に行いました。
山中 板宿診療所では、住民とともに医療制度の改善を求め、さまざまな運動をされていますね。
湧谷 最も印象的だったのは、小児麻痺(ポリオ)のワクチン輸入運動です。50〜60年代初めには小児麻痺が大流行して、全国で年に数千人の患者が出ていました。そんなとき、地域の患者さんから、「よく効くワクチンがあるらしい」と言われたんです。ソ連製の生ワクチンでした。住民の方々と署名を集め、国会要請にも行くなど、大きな運動を行い、生ワクチンの緊急輸入を実現することができたんです。すると、次の年から患者がほとんどいなくなりました。社会保障制度改善の運動が大事と身にしみましたね。
他にも、伝染病予防法や結核予防法の改善、健康保険の改悪反対、老人医療費無料化運動、塵肺患者認定運動、さらに、平和、被爆者運動と、政府とのたたかいのなかで、住民の要求をもとに、少しずつ社会保障改善を進めてきました。
山中 われわれの世代が当たり前に思っている、医療保険やワクチンなどの制度は、先生方の世代の方々が作り上げてこられたものなのですね。私も、ダム建設反対運動にかかわり、原発事故被害などを目にして、住民が問題を感じ、政府や企業に対して声を上げたときに、医師が住民の側に立って、共に動くことが大切と感じています。
湧谷 その通りです。だんだん政府の力が強くなり、社会保障の改悪が進み、平和が脅かされようとしています。ここから立て直すのは大変ですが、やらなければならないと思います。
「国民医療向上」めざす協会のすぐれた理念
湧谷先生お気に入りのカメラを手に記念撮影。カメラが共通の趣味と分かり、
盛り上がる一幕も
湧谷 ええ。1963年にできた、協会の前身である保険医クラブの発起人には、神戸大学の小児科におられた戸嶋寛年先生や竹内敏文先生(いずれも故人)に、同級生の浦井洋先生、神戸協同病院の元院長の伊藤良先生らがいます。
現在の協会は、二つの目的として「保険医の生活と権利をまもる」「国民医療の充実と向上」を掲げておられますが、保険医クラブ設立の頃から、すでに目的を「保険医の機能を高める」「国民医療の向上」とし、医師だけでなく国民医療の充実をはかるとされているのが、優れた発想だと思っていました。幅広く患者さんと手をとり、運動できるのが保険医協会だと思っています。
さらに、研究会など、学術面でも優れた活動をされています。戸嶋先生や桐島正義先生(故人・元協会理事長)は、私が学生のとき医局におられ、テニス部で一緒だったのですが、会うたびに「勉強せい」と本をくださったことを思い出します。これからも、大きく発展されることを願ってやみません。
山中 本日は、貴重なお話をありがとうございました、先生方の志をついで、自らたたかっていかなければならないと感じます。