兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2015年6月25日(1786号) ピックアップニュース

元新聞部長 幸原 久先生インタビュー 「協会のあゆみと保険医新聞」
新聞は「協会の顔」

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芦屋市 幸原 久先生
【こうはら ひさし】1925年生まれ。52年米子医科大学(現鳥取大学)卒業、以後芦屋保健所、甲南病院小児科を経て58年幸原小児科・内科医院開業。67年保険医クラブに入会し、69年の協会設立当初から理事を務める。2000年副議長、03年監事

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会員相互の連絡用として発行された
「保険医クラブニュース」第1号

 兵庫県保険医協会の機関紙である兵庫保険医新聞。その役割について、協会の前身である「保険医クラブ」の時代から役員を務め、新聞の責任者として1000号以上にわたって新聞を発行してきた、元新聞部長の幸原久監事に、多田梢副理事長(新聞部員)が聞いた。

部外秘から会員拡大の武器へ
 多田 幸原先生には、同じ芦屋の開業医の先輩としてずっとお世話になってきました。先生は協会設立当初から役員を務めてこられたということで、兵庫保険医新聞の創刊の経緯について教えてください。
 幸原 60年代はじめ、国民皆保険制度が確立した当初、保険医は制限診療を強いられ、当局からの不当な減点・審査、強権的な指導監査が日常的に行われていました。各地で指導を苦に保険医が自殺する時代で、このような現状を打破すべく、保険医協会の前身である「保険医クラブ」が63年8月、14人の、熱意を持った先生方が発起人となり設立され、その翌日には「保険医クラブニュース」第1号(右)が発行されたと聞いています。
 当時は医師会から「第2医師会」だと誤解されていたこともあり、ニュースは部外秘で内部の結束をはかることを目的としていました。故戸嶋寛年先生(元副理事長)自身が手書きした原稿をガリ版印刷した、チラシみたいなものを月1回発行していたそうです。
 クラブの運動が活発になり、会員も増えるにつれ報道する記事も増え、会員が400人を超えた67年10月の第50号より現在のようなタブロイド版となり、今も毎号載せて好評のコラム「燭心」欄を設け、「審査対策部だより」を掲載しました。「だより」は会員が一番先に目を通すものとしてよく読まれました。
 多田 昨年に行った会員意見実態調査でも、新聞のよく読む欄として一番に「保険請求、審査・指導情報」が挙げられていました。
 幸原 審査対策は協会活動の重要な柱の一つですからね。
 タブロイド版の新聞となり、内容も充実してきて「これはニュースではなく新聞である」という声が高まり、67年12月には、「ニュース」から「兵庫保険医新聞」と改称し、協会の顔として、会員の先生に親しまれています。72年7月の109号から月2回、73年12月の142号から月3回発行となり、機関紙として確立しました。
 多田 この時期に協会会員も764人から一気に2000人に急成長しています(下図)。会員への情報発信の場、会員拡大の武器として、組織発展にどれほど大きな役割を果たしてきたかが分かりますね。
「君がやれ」の一言で新聞部長へ

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聞き手 多田 梢副理事長

 多田 先生は長年、新聞部長として発行の責任を担ってこられました。先生と協会・新聞部との関わりについて教えてください。
 幸原 もともと大学が一緒だった故野村和夫先生(元副理事長)に誘われクラブに入ることになったのが始まりです。ある日、会合があるからと故桐島正義先生(元理事長)の診療所に呼ばれて行くと、「何かやれ」ということで、まず研究部に所属することになり、研究部関係の記事をもっぱら書いているうちに新聞部に移りました。
 ある時、私の後輩の先生が執筆担当の「腰痛」の原稿が出ないので、私がピンチヒッターとして仕方なく原稿を作成したところ、尼崎の横田友二先生(元理事)の目にとまり「これはドグマが多くてアカン。やめておきなさい」と叱られ、ボツになったこともありましたね(笑)。そんなうちに新聞部長だった野村先生に「次は君がやれ」と指名され、新聞部長を引き受けたのです。
タブーのない編集を大切な伝統に
 多田 先生が新聞部長を務められた中でご苦労されたことは何ですか?
 幸原 同和問題を紙面で扱ったときですね。
 公立八鹿高校事件(74年11月19日、県立八鹿高等学校で、集団下校中の教職員約60人を部落解放同盟の同盟員が学校に連れ戻して約13時間にわたり監禁、暴行し、教師48人が負傷した事件)について、一般新聞があまり取り上げないので、「民主主義と人権を守るために、暴力に対し闘わなくてはならない」という立場から紙面を展開しました。あの時は各地で不当な恫喝が行われていたので、いろいろな圧力を受けるのではととても不安でしたね。結局圧力を受けるようなことはありませんでしたが...紙面には誹謗中傷などでない限り、基本的には何でも載せていったらいいと考えています。タブーのない編集は大切な伝統にしてほしいですね。
 阪神・淡路大震災の時も休みなく月3回発行し続けていましたが、1200号くらいで「いいかげんやめさせてくれ」ということで多田先生にバトンタッチし、今は池本恒彦先生に部長をがんばっていただいています。
 多田 あの時は、「新聞部に呼んでいただいた先輩からお願いされたのだから」と思い、引き受けさせていただきました。
会員の顔が見える「読まれる」新聞へ
 多田 先生には今も新聞部員として紙面を見ていただいていますが、現在の保険医新聞をご覧になっていかがですか。
 幸原 政治や運動課題はもちろん紙面の柱ですが、医師が読む新聞なので、診療内容や保険請求などの情報の充実を意識してほしいですね。診療の情報や請求のルールはどんどん変わっていくのでついていくのが大変ですから。研究会の講演録の内容に対し、三重県から問い合わせが来たこともありましたね。それから、会員の皆さんに親しみを持ってもらうため、私はまず「会員の顔が見える新聞づくり」を心掛けていました。今も会員や家族・スタッフからの投稿をたくさんのせていますね。
 そして、文化的な記事を多く載せてほしいと思います。署名や政策解説などの医療運動関係の記事ばかりでは、読むのがしんどいという声も聞きました。俳句や川柳などのコーナーがあってもいいのかもしれません。まずそういうコーナーに目を止めていただきほっと一息してもらい、そのついででもいいので隣の運動の記事を読んでもらうことが大切なのではと思います。
 多田 まずは読んでもらうことからですね。
 幸原 ええ。今、権力側に押され、社会保障の削減がどんどん進められようとしています。この流れを押し返し、少しずつでも充実をすすめていかねばなりません。協会設立当時、新聞の題字横には協会の目的と立場(「開業医の権利と生活を守る、社会保障確立のための運動を広げる」)が書かれていました。これを実現するために、患者さん・会員の声を集め紹介し、運動に活かしていくということが、新聞の非常に大きな役割です。
若い先生方はもっと平和問題に関心を
 多田 最後に若い先生方にメッセージをお願いします。
 幸原 平和の問題にもっと関わってほしいと思います。第2次安倍政権となり、集団的自衛権行使容認の閣議決定など、これまでの日本の安全保障を大きく変えてしまうような法案が出されており、軍事費も年々上がってきています。軍部がどんどん大きくなり、国民を巻き込んで戦争に突き進んでいった昭和初期と非常によく似ており、だんだん昔のようになっていってしまうのではと危惧しています。
 戦争によって本当に多くの人が人を殺し、殺されました。戦時中は道端に死体が置かれており、死と隣り合わせで、当時20歳前後だった私はどうしたらよいか分かりませんでした。理不尽なことが数多く行われ、いろいろな価値観がひっくり返ってしまいました。戦争をしたい人はいつでもいます。それは金が絡んでいるのでしょう。
 昔は再び戦争を起こさせないために皆必死で、若い先生方を中心に熱心な反戦運動が起きていましたが、今は少し下火になっているのではと思います。
 診療で多忙かと思いますが、今声を上げ、平和の問題に積極的に取り組むべきです。「憲法を変えよう」という人もいますが、全く変える必要はないと思います。それよりも一度、憲法前文と全ての条文を読んでみてほしいですね。
 多田 協会設立当初の新聞の役割から平和の大切さまで多くのお話を伺い、大変勉強になりました。ありがとうございました。

図 会員増加のあしどり
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