兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2016年3月05日(1807号) ピックアップニュース

東日本大震災被災地訪問(2016年1月9日〜11日) 報告
仮設−復興住宅−高台移転求められるコミュニティーづくり
西宮市・広川内科クリニック  広川 恵一

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気仙沼市の南郷復興住宅(上)、同市本吉地区高台移転住宅(下)で住民の方から話をうかがう

 協会は1月9日から11日にかけて、宮城県、岩手県の被災地を訪問。広川恵一顧問、林功先生が参加した。この訪問は東日本大震災被災地の現状を知り、現地の方々と交流することを目的に継続しているもの。震災から5年を迎える被災地で、仮設住宅から災害復興住宅へ入居された方や、高台移転した住居で生業を再開する予定の被災者から現状を伺い、課題を学んだ。広川顧問の報告を掲載する。
震災5年目の被災地へ
 今回の訪問の目的は震災5年を迎える被災地の医療課題をうかがうこと、復興住宅・借り上げ復興住宅の課題について現地の方々と交流することでした。
 訪問先は宮城県気仙沼市の赤岩牧沢仮設住宅、南郷復興住宅、本吉地区高台移転住宅、民生委員の小野道子氏、岩手県一関市千厩町の訪問看護センター所長・医療支援ボランティアの菊地優子氏(ともに2013年日常診療経験交流会震災プレ企画講師)および同藤沢町の〈ちくちく工房〉。
 このたびも気仙沼市民ボランティアの村上充氏、新たに〈東日本大震災復旧・復興支援みやぎ県民センター〉の金田基氏(15年日常診療経験交流会震災プレ企画講師の金田早苗氏のご主人)、〈ライフワークサポート響〉の阿部泰幸氏の協力を得ました。参加は西宮・芦屋支部の林功医師と私、事務局は小川昭、楠真次郎、山下友宙の三氏。
ここは自分たちが生きるところ−そしてそれぞれの課題
 これまで訪問先はおもに仮設住宅・医療施設でしたが、震災5年となると訪問先も仮設−復興住宅−高台移転自立再建と変化がみられます。
 仮設住宅では少しずつ人が減り(被災3県仮設空室率4割、独居死5年で188人)、ボランティアが訪問しても「もういい」との返事で、焦りからあきらめが感じられるケースも増えてきたとのことです。まだ学校の校庭に仮設が残るところもあり、「撤去」「集約化」が課題となる一方「転居」も難しいものがあります。一方、仮設の雪かきやイベントでは、転居した人たちが家のことをおいてでも集まるコミュニティーもできています。
 復興住宅では人は来ないで書類が放り込まれるだけで、「(仮設の時と比べ)寂しくなったね」との声を聞きました。コミュニティーづくりやそのきっかけが切に求められています。
 南三陸の高台移転は計画に時間がかかったことから予定通りに人々が参加できず、商店街の再建やもとの職業継続は難しく、閑散としていました。車で市立本吉病院まで10分、気仙沼市立病院まで40分、志津川病院まで1時間要します。
 ボランティアの方々から、公共事業の防潮堤は耐用年数が数十年なのに、千年に一度の大津波に備え何兆円という膨大なお金を使って漁業も景観も損なうなら意味がない、それよりも住宅と浜から高台へ車も人もすぐに駆け上がれる道路がほしいという声を聞きました。
 被災地では医療機関・医師不足で、医療費窓口負担免除の縮小〜打ち切りは、いのち・暮らしに直結します。医療への期待は大きく、安心して受診できるための対応が不可欠です。
 南三陸で家も仕事場も流された縫製工場の3人が仮設にミシンを持ち込んではじめた〈ちくちく工房〉は、被災地のさまざまな企画を作品でサポートして人々を励ましていました。
 仮設−復興住宅−高台移転、それぞれ「ここは自分たちが生きるところなのだ」という思いをもとに、そのとりくみを進めていくことに尽きると思いました。
被災地の歴史から学ぶ
 一関を経て帰路につきました。ここでは杉田玄白と深くかかわりがある医師建部清庵が1755年、飢饉対策に「民間備荒録」を発行し、飢饉には住民と藩が協力して〈粥小屋〉をつくり餓死を防いだという記録があります。その弟子が蘭方医・蘭学者の大槻玄沢。その孫が国語学者の大槻文彦で、彼が宮城県尋常中学校校長の時の教え子が大正デモクラシー・社会活動家で知られる吉野作造です。被災地の歴史には学ぶべき多くのものを感じます。
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