2017年5月15日(1845号) ピックアップニュース
東日本大震災から6年 被災地訪問レポート
被災地の生活・医療はいま
2011年の東日本大震災から6年が経過したなか、協会は3月18日〜20日にかけて、被災地の宮城・岩手・福島各県を訪問。協会から広川恵一顧問、松岡泰夫・村上博両評議員が参加し、チベット音楽家のバイマーヤンジンさんのコンサートを災害公営住宅や寺院で開催した。協会の被災地訪問は、現地の方々と交流して被災地の現状を知り、医療や生活の課題を明らかにすることを目的に継続して行っている。
福島県
南相馬市にある大町病院は、福島第一原発から25㎞に位置する。猪又義光院長・藤原珠代看護部長と看護師の生田チサトさん、詩人の若松丈太郎さんと20日に面会した。
猪又院長は、「共通する地震の経験を語り合って将来のためとしたい」と述べ、行政には、地域医療で奮闘している民間病院への支援を充実してほしいと語った。
藤原看護部長は、震災7年目に入り、多くの支援を受けている側としてどのように復興していくかが使命であると考えていると述べた。特に看護師の確保が継続的に課題となっていると述べ、行政には看護師のモチベーションをあげられるような支援を求めたいとした。
同病院では婦人科を11月から開始し、小児科外来も行っているが、地域には他に小児科がないとして、子どもや若い労働者が減っている中、地域医療のあり方が問われているとした。また、入院患者が退院しても戻ってきてしまうことが多いと話した。
チェルノブイリや福島の原発事故をテーマとした作品が多数ある若松氏は、「原発事故から8年経ったチェルノブイリを見てきて、この福島に住んでいた自分の役割は、福島の状況をレポートすることだと思っている。福島県では何も解決していない。これは『核災』だ」と語った。
楢葉町・宝鏡寺
避難指示解除となった楢葉町では、宝鏡寺のお堂でヤンジンさんのコンサートを行い、全国公害被害者総行動実行委員会の現地視察会の参加者と合流し、早川篤雄住職の話を聞いた。早川住職は、楢葉町が避難指示解除になって1年半経つがいまだに住民の1割、40歳代以下では2%しか帰還していないのが現実と紹介。
国の「避難指示を解除し、戻りたいと考えている住民の帰還をサポートする」「帰還するかどうかは一人ひとりの判断」などいう説明は、一見その通りだと思うかもしれないが、強制的に避難させられ、もとの楢葉町はどこにもなく、店舗や医療機関など戻るための条件も整っていないのに、賠償を打ち切り、それぞれの判断で戻れと言うのはとんでもないことだと語った。
安心して暮らし、子どもを生み育てられるような環境は数万年・数十万年戻ってこないかもしれないが、だからと言って、あきらめることはできないとし、原発事故を福島で最後にするため、全国の皆さんと一緒に闘いたいと語った。
いわき市・旅館「新つた」
地震・津波・原発事故で、旅館も大きな被害を受け、しばらく営業できず従業員に失業給付を受けてもらった。しかし従業員は解雇できないと、その後全員に復職してもらったとのこと。
湯本温泉全体の客足が回復しておらず、「風評被害」とよく言われるが、風評ばかりでなく、一般の客をずっとこの間受け入れていなかった影響があるので、「フラおかみ」などのイベント開催等、周囲の旅館と協力して、湯本温泉を盛り上げようとしていると語った。
岩手県
宮古市にある水産加工会社「三陸海風」の経営するカキ小屋で、山口隆志社長にお話を伺った。
津波によって、山口さんの自宅も含め住んでいる地域の約20世帯の家全てが流された。小屋の近くには、津波で流され山の斜面の木の枝に引っかかった浮き輪や、斜めにひしゃげた柵などが残り、津波の威力を物語っていた。
地震後、この地域は非居住地域に指定され、住民は皆、仮設住宅で暮らすことになった。山口さんは、被災者の働く場所をつくろうと、堤防がなく風通しの良い立地を生かし水産加工業とカキ小屋を運営する会社「三陸海風」を立ち上げ、昔ながらの手法で作った「新巻鮭」を復活させた。昨年から鮭が不漁であるなど経営には困難も多いが、何とか続けていきたいと話した。
職員さんは、「仕事を持ってきてほしい。補助金は使ったらなくなってしまう。仕事がないと、若い人が出て行かざるをえなくなる」と、地域復興には仕事が必要だと語った。
また、同県田野畑村にある元開拓保健婦の故・岩見ヒサさんの自宅を訪問し、焼香をあげた。岩見さんは、80年代に田野畑村への原発誘致計画阻止に尽力したことでも知られ、協会は2014年4月に初めて訪問。同年9月、15年3月と訪問を重ねていたが、2015年9月17日に97歳で永眠された。
陸前高田市にあるこども図書館「ちいさいおうち」を訪問。「ちいさいおうち」は、震災後、避難所での読み聞かせから始まり、子どもたちにゆっくりくつろぎながら本を読む楽しさを知ってほしいとオープンした図書館。スタッフの蒲生さんは「助成が打ち切られる中で、どんなことがあってもこの図書館を続けます」と語った。
陸前高田市光照寺・普門寺
光照寺の高澤公省和尚は、震災被害者とその遺族のために、追悼施設として「ののさま(仏様)の陸前高田駅」を境内に建立された。流されたJR陸前高田駅舎を模した建物で、天井には公省和尚が「訪れた人が別の角度から日常生活を見られるように」との思いを込め、自身の手で絵とメッセージを描いている。
普門寺の熊谷光洋和尚は、地震後、福井県からのボランティア30人を受け入れた。寺は沿岸から遠く避難者は来なかったが、身元不明の約400人の遺骨が届けられた。その後DNA鑑定で多くは身元が判明し、今は11人の遺骨が残っており、寺で弔っている。この地域では、いまだに200人ほどの行方不明者がおり、遺族は何とか見つけてほしいと要望しているが、非常に難しい状況。遺族に、「成仏している」と伝え、安心してもらうことが一番の使命と思っていると話した。 本堂のご本尊横に、震災被害者のためのお堂がある。高田松原の松・海岸線・白砂に極楽に向かう船をイメージした真っ白なお堂に、全国から寄せられた仏像などが安置されており、仏像は1300体に上る。
宮城県
市営南郷住宅は、気仙沼市内で最初に入居が始まった災害公営住宅。計3棟で167世帯287人が住み、高齢化率は52.6%となっている(河北新報2016年9月11日より)。同住宅のコミュニティセンターで19日、ヤンジンさんのコンサートを行った。
ヤンジンさんは、阪神・淡路大震災の経験や、自身の生まれたチベットの暮らしと日本との違いなどを語った。海のないチベットで過ごした彼女にとって、海はあこがれの対象であったが、その海が恐ろしい顔を見せることもあると東日本大震災で知ったという。チベットでの学校作りの取り組みを行っている自身の活動などを紹介した。
コンサート後は協会メンバーがグループに分かれ、同住宅の入居者を訪問。
ある入居者の方は、津波で自宅が流された。復興住宅に入居し、近くのお店で働いていたが、1月に肺炎で倒れ、療養中という。現在、市民病院や地元の開業医など複数の医療機関にかかり、20種類近い薬を服用している。降圧剤を2剤服用しているが血圧は低すぎるほどのため、広川先生から、医師に相談するよう伝えた。入居者は「市立病院には乳がん以来通っている」「肺炎で倒れているときお世話になった先生だから」と、医師には話しづらいと話す。
終了後の交流会では、南郷1区自治会の伊東征吉会長、熊谷敬三副会長と訪問看護師の菊地優子さん・仮設住宅民生委員の小野道子さん、医療コーディネーターの村上充さんが参加され、被災後からの復興、住民の現状などについて話を伺った。自治会の方からは、この被災地からチベットに対して何かできることはないかと申し出があった。
福島県
南相馬市・大町病院
看護師確保が課題
福島第一原発近くの地域医療が抱える課題を話す猪又院長(上)・藤原看護部長(下)
猪又院長は、「共通する地震の経験を語り合って将来のためとしたい」と述べ、行政には、地域医療で奮闘している民間病院への支援を充実してほしいと語った。
藤原看護部長は、震災7年目に入り、多くの支援を受けている側としてどのように復興していくかが使命であると考えていると述べた。特に看護師の確保が継続的に課題となっていると述べ、行政には看護師のモチベーションをあげられるような支援を求めたいとした。
同病院では婦人科を11月から開始し、小児科外来も行っているが、地域には他に小児科がないとして、子どもや若い労働者が減っている中、地域医療のあり方が問われているとした。また、入院患者が退院しても戻ってきてしまうことが多いと話した。
チェルノブイリや福島の原発事故をテーマとした作品が多数ある若松氏は、「原発事故から8年経ったチェルノブイリを見てきて、この福島に住んでいた自分の役割は、福島の状況をレポートすることだと思っている。福島県では何も解決していない。これは『核災』だ」と語った。
楢葉町・宝鏡寺
賠償打ち切りとんでもない
避難指示解除となった楢葉町の宝鏡寺でコンサート
国の「避難指示を解除し、戻りたいと考えている住民の帰還をサポートする」「帰還するかどうかは一人ひとりの判断」などいう説明は、一見その通りだと思うかもしれないが、強制的に避難させられ、もとの楢葉町はどこにもなく、店舗や医療機関など戻るための条件も整っていないのに、賠償を打ち切り、それぞれの判断で戻れと言うのはとんでもないことだと語った。
安心して暮らし、子どもを生み育てられるような環境は数万年・数十万年戻ってこないかもしれないが、だからと言って、あきらめることはできないとし、原発事故を福島で最後にするため、全国の皆さんと一緒に闘いたいと語った。
いわき市・旅館「新つた」
客足回復へイベント工夫
いわき湯本温泉にあり、2011年、広野町の避難者の受け入れを行った旅館「新つた」女将の若松佐代子氏にお話を伺った。地震・津波・原発事故で、旅館も大きな被害を受け、しばらく営業できず従業員に失業給付を受けてもらった。しかし従業員は解雇できないと、その後全員に復職してもらったとのこと。
湯本温泉全体の客足が回復しておらず、「風評被害」とよく言われるが、風評ばかりでなく、一般の客をずっとこの間受け入れていなかった影響があるので、「フラおかみ」などのイベント開催等、周囲の旅館と協力して、湯本温泉を盛り上げようとしていると語った。
岩手県
地域復興に仕事を
海を背景に山口社長らと記念撮影
津波によって、山口さんの自宅も含め住んでいる地域の約20世帯の家全てが流された。小屋の近くには、津波で流され山の斜面の木の枝に引っかかった浮き輪や、斜めにひしゃげた柵などが残り、津波の威力を物語っていた。
地震後、この地域は非居住地域に指定され、住民は皆、仮設住宅で暮らすことになった。山口さんは、被災者の働く場所をつくろうと、堤防がなく風通しの良い立地を生かし水産加工業とカキ小屋を運営する会社「三陸海風」を立ち上げ、昔ながらの手法で作った「新巻鮭」を復活させた。昨年から鮭が不漁であるなど経営には困難も多いが、何とか続けていきたいと話した。
職員さんは、「仕事を持ってきてほしい。補助金は使ったらなくなってしまう。仕事がないと、若い人が出て行かざるをえなくなる」と、地域復興には仕事が必要だと語った。
また、同県田野畑村にある元開拓保健婦の故・岩見ヒサさんの自宅を訪問し、焼香をあげた。岩見さんは、80年代に田野畑村への原発誘致計画阻止に尽力したことでも知られ、協会は2014年4月に初めて訪問。同年9月、15年3月と訪問を重ねていたが、2015年9月17日に97歳で永眠された。
陸前高田市にあるこども図書館「ちいさいおうち」を訪問。「ちいさいおうち」は、震災後、避難所での読み聞かせから始まり、子どもたちにゆっくりくつろぎながら本を読む楽しさを知ってほしいとオープンした図書館。スタッフの蒲生さんは「助成が打ち切られる中で、どんなことがあってもこの図書館を続けます」と語った。
陸前高田市光照寺・普門寺
被災した方の心安らかに
ヤンジンさんが震災前から東北地方の寺院でコンサートを行っており、震災直後にも親子で訪れていたとのことで、光照寺と普門寺を紹介いただいた。光照寺の高澤公省和尚は、震災被害者とその遺族のために、追悼施設として「ののさま(仏様)の陸前高田駅」を境内に建立された。流されたJR陸前高田駅舎を模した建物で、天井には公省和尚が「訪れた人が別の角度から日常生活を見られるように」との思いを込め、自身の手で絵とメッセージを描いている。
普門寺の熊谷光洋和尚は、地震後、福井県からのボランティア30人を受け入れた。寺は沿岸から遠く避難者は来なかったが、身元不明の約400人の遺骨が届けられた。その後DNA鑑定で多くは身元が判明し、今は11人の遺骨が残っており、寺で弔っている。この地域では、いまだに200人ほどの行方不明者がおり、遺族は何とか見つけてほしいと要望しているが、非常に難しい状況。遺族に、「成仏している」と伝え、安心してもらうことが一番の使命と思っていると話した。 本堂のご本尊横に、震災被害者のためのお堂がある。高田松原の松・海岸線・白砂に極楽に向かう船をイメージした真っ白なお堂に、全国から寄せられた仏像などが安置されており、仏像は1300体に上る。
宮城県
気仙沼市 南郷コミュニティセンター
バイマーヤンジンさんが歌とトーク届ける
復興住宅でバイマーヤンジンさん(左上)のコンサートを開催
ヤンジンさんは、阪神・淡路大震災の経験や、自身の生まれたチベットの暮らしと日本との違いなどを語った。海のないチベットで過ごした彼女にとって、海はあこがれの対象であったが、その海が恐ろしい顔を見せることもあると東日本大震災で知ったという。チベットでの学校作りの取り組みを行っている自身の活動などを紹介した。
コンサート後は協会メンバーがグループに分かれ、同住宅の入居者を訪問。
ある入居者の方は、津波で自宅が流された。復興住宅に入居し、近くのお店で働いていたが、1月に肺炎で倒れ、療養中という。現在、市民病院や地元の開業医など複数の医療機関にかかり、20種類近い薬を服用している。降圧剤を2剤服用しているが血圧は低すぎるほどのため、広川先生から、医師に相談するよう伝えた。入居者は「市立病院には乳がん以来通っている」「肺炎で倒れているときお世話になった先生だから」と、医師には話しづらいと話す。
終了後の交流会では、南郷1区自治会の伊東征吉会長、熊谷敬三副会長と訪問看護師の菊地優子さん・仮設住宅民生委員の小野道子さん、医療コーディネーターの村上充さんが参加され、被災後からの復興、住民の現状などについて話を伺った。自治会の方からは、この被災地からチベットに対して何かできることはないかと申し出があった。