兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2017年11月05日(1861号) ピックアップニュース

会員インタビュー 淡路島で診療半世紀
協会の歴史とともに 南あわじ市 大森弘之先生

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南あわじ市 大森弘之先生
【おおもり ひろゆき】1929年生まれ。55年長崎大学医学部卒。国立別府病院勤務を経て、67年に大森診療所開業。72年2月協会入会。87年〜89年淡路支部第4代支部長。現在、支部幹事、協会予備評議員

 約50年間続けてきた診療所を今年4月に閉院された南あわじ市の大森弘之先生。保険医協会設立草創期からの会員で淡路支部長も務めた大森先生を、高田裕・淡路支部長が訪れ、協会発足当時や支部設立の思い出などについて聞いた。

 高田 先生はこの4月で、約50年続けてこられた大森診療所を閉院されました。長い間、本当にお疲れ様でした。
 大森 大学卒業後、病院勤務を経て、淡路島の西淡町立津井診療所に赴任したのが1964年でした。契約が終了した後も「ここに残ってほしい」と言われ、もともと垂水区で開業する予定でしたが、そのまま引き継ぐことを決めて診療所を建て替え開業したのが67年です。
河崎・桐島先生の思い出
 高田 兵庫協会の前身である兵庫保険医クラブ発足が63年、協会の設立が69年です。開業医としての半世紀は、そのまま協会の歴史とも重なるわけですね。
 大森 私が協会に入会したのは72年ですが、思い出深いのは、「協会には必ず参加しろ」と私を誘っていただき、その後もご指導いただいた河崎与一郎先生のことです。河崎先生はスケールの大きな方で、何でもよくご存じで交友関係も広かった。三原郡医師会(現・南あわじ市医師会)の会長をはじめ、西部医師会議長、県医師会理事なども務められ、医師会の中で先生のことを知らない人はいなかったと思います。物事や方針をしっかり決めてくれる、大きな存在でした。
 河崎先生が神戸大学第二外科におられたとき、神戸大学小児科で協会設立発起人の戸嶋寛年先生が大学で影響力をもっておられました。河崎先生が保険医クラブに入会された直接のきっかけは、同じく協会設立メンバーの成味秀世先生からの勧誘だったそうです。
 高田 淡路支部ニュース100号記念特集号(91年10月)に河崎先生の投稿が掲載されています。「保険医協会は丹頂鶴と同じで、頭は赤いが行為は美しく、正義感に富み、開業医の味方」。ユニークな表現ですね。
 大森 その頃は、協会会員で共産党の衆院議員でもあった浦井洋先生が協会の総会で来賓あいさつされていました。私は「自民党でなくてよいのか」と、当時理事長だった桐島正義先生に意見をぶつけたこともありました。桐島先生からは「『共産党だから』と考えるのではなく、物事がどうあるべきかを考えることが大事ではないか」と。その通りですよね。河崎先生からは「ごちゃごちゃ言うな」と一喝されました(笑)。そんなこともあって、桐島先生のこともよく記憶に残っています。
始まりは会員拡大から
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聞き手 高田裕 淡路支部支部長

 高田 淡路島は、兵庫県の中でも協会の入会率が高い地域ですね。
 大森 私が医師会理事の仕事を仰せつかるようになった80年頃、河崎先生は県医師会理事だったこともあり、協会の活動はかわりに私が担っていました。私の最初の仕事は、三原郡医師会の会員を入会させること。河崎先生の拝命で「医師会の会員は皆、協会の会員になろう」と勧誘したのです。
 高田 会員は順調に増えたのですか。
 大森 いやぁ、大変でしたよ。先生方は皆「一国一城の主」といった具合で、しかも私は医師会で一番の若輩者。古参の先生と話をしても「協会はアカだ」と、なかなか相手にしてくれませんでした。説得するのに手間と時間がかかりましたね。
 河崎先生は目立たないながらも、洲本市や津名郡(現・淡路市)の医師会長にお願いするなど、先頭に立って会員拡大に努められました。今は亡くなられた先生方の多くもその頃入会されていたと思います。
 高田 私が入会したのは五色診療所(洲本市)に勤務していた82年です。当時支部長をされていた津本定男先生から「保険診療をするのだから」と誘われて(笑)。河崎先生や大森先生など先輩方の奮闘もあって、その頃にはすでに「協会には入るものなんだ」という雰囲気がありました。
苦労へて淡路支部設立
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大森先生と高田先生、事務局で淡路支部のニュースや写真を眺めながら、思い出話に花を咲かせた

 高田 淡路支部の設立は79年で、尼崎に次ぐ県下2番目の支部です。淡路島には淡路市(旧津名郡)、洲本市、南あわじ市(旧三原郡)3医師会がありますが、3医師会の先生方で淡路島に一つの協会支部をつくるのは大変だったと聞きます。
 大森 もともと3医師会は必ずしも仲が良かったわけではなく、意見の相違もあって、協会支部設立の話はなかなか進みませんでした。粘り強く議論を重ね、津名郡の清木昌之介先生のご尽力や、協会理事で当時組織部長をされておられた森下敬司先生の協力などもあって、何とか設立にこぎつけたわけです。
 高田 手元に「淡路支部ニュース」の創刊号(79年6月)があります。「淡路に協会支部誕生」の記事で、「会員に喜ばれる支部を」との清木昌之介初代支部長の談話が掲載されています。「先輩の尼崎支部をお手本として、約2年間苦しみ、励ましあって結成に漕ぎつけることができました」「会合の出席に1時間もかかる先生もありました。こういった中でそれぞれの方が時間をやりくりして持ち場を守って会議を推進し、一歩一歩積み上げてきたことが良かったのではないかと思っています」。当時の先生方の思いが凝縮されていると感じました。
 大森 ちょうどその頃でしょうか、河崎先生が三原郡の会長になってから、3医師会で今の南あわじ市緑町の土地を利用して「淡路地域医療センター医師会病院」をつくろうと提案されました。結局建設には至りませんでしたが、それにあわせて3医師会を残す形で島全体の淡路医師会が82年にでき、河崎先生が初代の会長になられました。
 高田 淡路医師会は各医師会持ち回りで会長に就き、今日に至ってますね。
 大森 協会の淡路支部も、淡路3医師会の交代で支部長を回そうという話でした。支部設立に尽力された清木先生が初代支部長で、その後に津名郡の津本定男先生、洲本市の金藤茂先生、そして三原郡の私という順番でした。
 高田 支部ニュースの№2(79年7月)には、「第1回淡路支部幹事会開く」の記事があります。会場は「メディカルサービスKK淡路営業所の好意で同所応接室を借用」。出席は、津名から清木先生、小瀬木健一先生、洲本から金藤茂先生、松本敬明先生、三原から中林性次先生、有坂卓先生、そして大森先生となっています。
 大森 支部ニュースは、発刊以来ずっと松本先生が担当してくれました。松本先生は、運営面でも淡路支部を本当によく引っ張ってくれました。河崎先生と同じ軍隊出身で、河崎先生は海軍、松本先生は陸軍でした。従軍した話もよく聞かせてもらいましたね。
これからの支部運営
 高田 先人のバトンを引き継ぎ現在は私が淡路支部長を拝命していますが、支部運営についてアドバイスをいただけますか。
 大森 若い先生が来てくれないと、組織を維持するのは大変です。私のときも「若い先生、若い先生」とずっと言っていましたが、なかなか難しいですよね。やはり、勉強会を開催するなど、他の先生方が支部に参加する機会をつくることが大切です。
 高田 設立当時の資料を見ても、支部企画に力を入れていることがうかがえますものね。
 大森 実際にいろいろな企画をしてみて、「支部の研究会は勉強になる」という声を聞きました。たとえ参加者が少なくても、めげずに継続することが大事だと思います。
−−ここで高田先生の携帯に患者さんから「蜂に刺された」という電話が−−
 高田 お話中、失礼しました。同様の電話は今日で3件目です。
 大森 ご苦労様です。田舎のかかりつけ医って、こういうものですよね。
 高田 現在は24時間の在宅医療もかなり普及しましたが、私からすると先駆けは大森先生です。
 大森 若い頃はよく往診に行っていましたね。多いときで1日に10件くらい回ることもあったり。枕元に電話をおいて夜中でも電話に出ていました。ただ、24時間診療を標榜し、ずっと拘束されるというのは、ちょっと違うのではとも思います。確かに「医者は患者の診察を断れない」という応召義務はありますし、24時間、地域医療に対応されている先生には敬意を表します。しかし、はじめからオープンに24時間診療を掲げることで点数を付けられるのであれば、私はそういう仕組みには参加したくないのです。
 高田 今は開業医自身の姿勢や熱意というよりも、保険請求上の要請として24時間拘束されますものね。最後に、まもなく設立50年を迎える兵庫協会にメッセージを。
 大森 協会は開業医のよりどころです。先人がつくりあげ、若い先生方が受け継がれた協会が、今後ともますます開業医のために発展することを祈念します。
 高田 今日初めて知ったことも多かったです。貴重なお話をありがとうございました。
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