兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2018年1月05日(1866号) ピックアップニュース

特別インタビュー いのち最優先の沖縄に
沖縄にじの会理事長 仲西 常雄 先生

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沖縄にじの会理事長 仲西常雄先生
【なかにし つねお】内科医師、糖尿病専門医。1943年沖縄県浦添市生まれ。69年熊本大学卒業後、1971年沖縄民主診療所、沖縄協同病院院長、沖縄医療生協理事長、沖縄県民主医療機関連合会会長を歴任。社会福祉法人「沖縄にじの会」理事長として二つの特養ホームを運営、沖縄県生活と健康を守る会連合会会長として活動中

 1972年に沖縄が日本に返還されてから、45年が過ぎた。しかし、米軍による事故や犯罪は続き、沖縄県の意思を無視して、政府が辺野古沖への新基地建設を強行している。米軍占領下、その後の沖縄県民の健康状況や医療体制はどうなのか。基地問題をどうとらえているのか。占領下の沖縄で診療所を立ち上げた仲西常雄先生に、加藤擁一副理事長がインタビューした。

医療資源の不足と自由診療の占領下
 加藤 先生は、占領下の沖縄の医療を知る最後の世代なのですね。
 仲西 私は戦前の沖縄で生まれ、高校までは沖縄で、熊本大学へ進学しました。この頃、沖縄に医学部はなく、医師を志望する学生は「留学生」として全国の国立大学に1〜2名ずつ派遣されていました。
 加藤 私の大学の先輩にも、何人かおられましたね。私が大学に入学した頃は、沖縄返還運動が大学でも盛り上がっていました。その頃、返還前の沖縄の医療はどのような状況だったのでしょうか。
 仲西 70年の沖縄の医師・看護婦数は全国平均の3分の1、病床数は全国平均の半分以下と、圧倒的に医療供給体制が不足していました。本土では国民皆保険制度が1961年に始まっていましたが、沖縄にはまともな医療保険も年金も、社会保障制度が全くありませんでした。
 医療は自由診療で、高い医療費を工面するため、農民は自分の畑を切り売りし、労働者は借金をし、それでも払えなければカネの切れ目が命の切れ目となる、悲惨な実態があちこちでありました。
 加藤 国民皆保険制度前は日本全国そんな状態だったと聞いていますが、沖縄ではその後も続いていたのですね。
 仲西 ええ。これを何とかしてほしいという声が充満しており、60年代から住民のための医療を行う民主的な診療所を作ろうという計画がされていました。ただ、医師がいないのです。本土から派遣してもらおうにも、パスポートがおりません。そこで第一陣として私を含め3人の医学生が名乗りをあげ、70年12月14日に私以外の2人の先生、島袋博美先生と山里将進先生がまず診療所を立ち上げ、私が遅れて71年に、2年の卒後研修を終えて赴任し、医師3人体制で診療を開始しました。
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聞き手 加藤擁一副理事長

沖縄民医連の医療実践
 加藤 診療所を立ち上げてからはいかがでしたか。
 仲西 「無差別平等の医療を行う診療所をつくる」と言っても、最初、住民は誰も信用してくれませんでした。そのころ、沖縄で大きな建物と言えば、病院か銀行くらいで、医者は金もうけをしているものと住民の目には映っていたんですね。
 信頼を勝ち取るには実践する以外にないと考え、私たちはとにかく往診をしようと決めました。当時の那覇市には、人口が約25万人もいたにもかかわらず、夜間救急や往診をする医療機関がなかったのです。しかし、往診の需要は非常に高いものでした。住民は高い医療費が払えないので入院できません。ぜんそく発作を起こして苦しくても家でじっと我慢し、風邪の人も我慢に我慢を重ねるので、皆こじれて肺炎になっているような状態でした。
 私たちが往診に行って、人生で初めて医者に診てもらったというお年寄りもいましたし、亡くなった後、死亡診断書のためだけに呼ばれることも多々ありましたね。
 往診を重ね、次第に信頼を勝ち得て、徐々に患者さんが増えていきました。
 加藤 住民の医療需要に応えた活動を実践されていったのですね。その後、診療所を病院化されていますね。
 仲西 はい。ベッドが必要という声に応え、復帰後の76年、139床の沖縄協同病院を開院しました(下写真)。先輩の島袋院長が急に病気をされ、ピンチヒッターとして私が78年から病院長になり、10年間務めました。病床も徐々に拡張し、365床になりました。
 その後、私は一線から退いたのですが、特養ホームをつくろうという運動が起こり、2012年から社会福祉法人の理事長として、県内に2カ所の特養ホームを運営しています。かたわらに訪問診療も行い、今も休む暇がないような状態です。
占領時代からの貧困の連鎖
 加藤 今の沖縄県民の健康状況はいかがでしょう。
 仲西 沖縄では、非正規雇用が労働者の45%を占め、4人に1人が年収200万円以下、子どもの貧困率は37.5%(2012年)で全国の2倍以上と、貧困が深刻です。
 加藤 貧困が健康格差を作るという関係ですね。私たちが昨年行った学校歯科治療調査では、兵庫県内の児童・生徒のうち、要受診者の65%が未受診、口腔崩壊の子供がいる学校は3割という結果が明らかになりました。他の協会の調査も大体同じくらいの数字ですが、沖縄では、未受診者が7割超、口腔崩壊の子がいる学校は4割超という結果で、高い子どもの貧困率と関わっているのではないかと感じています。
 仲西 沖縄の貧困の根は深く、占領時代から負の遺産として引き継がれ、親から子へと連鎖しています。無年金の方も多数います。72年から国民年金が導入され、復帰特別措置がとられたのですが、一括保険料納入が必要で多くの人が利用できませんでした。貧困が深刻になる中、健康状態も年々悪くなっています。
 加藤 昔は沖縄には「長寿県」というイメージがありましたが。
 仲西 それは戦前生まれの世代の話ですね。現在は、平均寿命も47都道府県中30番目になってしまいました。復帰以前から、アメリカ流のファーストフードが入ってきて普及した結果、肥満率は全国一になり、要精査率も高く、がん検診受診率は3割台と低い状態です。根本的には貧困がすべて関わっていると思います。
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76年に139床で開設された沖縄協同病院。県内初の夜間外来・24時間救急診療体制を実施した

米軍基地による人権侵害つづく
 加藤 現在もニュースで、米軍基地関連のさまざまな事件を目にします。
 仲西 米軍基地による人権侵害は、復帰前も復帰後も変わらず続いています。72年から2016年までの45年で、米軍航空機事故は709件、米軍人等による犯罪は、凶悪犯罪576件を含め、5919件起こっており、県民の人権も平和的生存権も侵害されつづけています。
 私たちは、医療を行うだけでなく、患者さんと一緒に基地問題も考えようと、継続的に取り組みを行っています。名護市辺野古沖へは定期的にバスを出し、参加を募って、基地建設反対の座り込みに参加しています。
 今、米軍基地をめぐる県民の意識は一段と高まってきていると思います。
 加藤 どういうことでしょうか。
 仲西 戦後に行われた土地の強制接収に対し、住民が求めたのは「土地の使用料をきちんと払え」ということで、基地そのものの撤去ではありませんでした。60年代の復帰闘争でも、基地関連産業で働いて生活している人たちもおり、基地反対は統一スローガンになりきれませんでした。
 しかし、基地に関連するさまざまな問題があまりに次々に起こりつづけ、基地そのものをなくさない限り、沖縄の苦しみはよくならないという点で、県民は一致してきています。2014年には、自民党県連幹事長だった翁長雄志氏(現知事)が、普天間基地の返還・辺野古への新基地建設断念・オスプレイ配備撤回、この三つの要求で、県下全市町村の議長と市長の意見を建白書にまとめました。これが「オール沖縄」で、翁長知事を先頭に、保守も革新もなく、基地反対で共闘しようという動きができました。
 加藤 保団連の大会や代議員会で、沖縄県保険医協会の仲里尚実会長が、米軍基地問題について発言され、沖縄の運動はすごいなと感じていましたが、「オール沖縄」は大きな前進ですね。
 仲西 確かに、歴史的に見れば非常に進歩しています。しかし沖縄だけの闘いでは、この問題は解決しません。やはり、安保条約をどうするかという本質的議論が国民全体のなかで高まらなければなりません。これは、すぐれて日本国民の真の独立の課題です。沖縄県民が、国民全体の議論を深める役割を果たせればと思っています。
 加藤 神戸にも74年まで米軍基地があり、市民運動で返還させました。地域住民の世論を大事にした上で、根本的には、先生がおっしゃったように日本の政治を変えないといけないと思います。
 私たちも開業医の団体として、沖縄の住民の命・健康を守るため、ともに運動していきたいと思っています。
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