兵庫県保険医協会

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兵庫保険医新聞

2019年12月05日(1928号) ピックアップニュース

環境・公害対策部学習会
水俣病・カネミ油症は終わっていない

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水俣病・カネミ油症の歴史について話す藤野先生

 環境・公害対策部は11月9日、協会会議室で学習会を開催。「水俣病・カネミ油症の真実」をテーマに、「水俣病訴訟支援・公害をなくする県民会議医師団」団長で、長年、水俣病闘争の中心を担ってきた藤野糺先生が講演し、17人が参加した。

 藤野先生は、水俣病が公害認定された1968年に熊本大学を卒業し、神経精神医学教室の立津政順教授や原田正純医師のもとで水俣病患者を初めて診察したと自身の経歴を紹介した。
 水俣病は、チッソの工場から不知火海に排出されたメチル水銀が原因で発生し、1956年に公式に確認された。しかし、行政は工場が排水処理設備を設置したことなどを理由に60年に終息したとし、ごくわずかな患者しか認定しなかった。
 藤野先生は、当時、認定患者以外にも膨大な人々が水俣病の症状で苦しんでおり、この状況を問題視した医師たちが「県民会議医師団」をつくり、自身は事務局長となって、地域住民の検診・診察を行ったと紹介。74年には、患者と協力し、水俣病患者を診るための医療機関として、チッソ工場前に水俣診療所を建設し、患者の救済に取り組んできたとした。
 患者救済にあたっての壁は、行政が水俣病の症状を限定し、多くの患者を認定しないことであった。県民会議医師団は水俣病の病像を確立するために、汚染地域の掘り起こし検診として、不知火海の桂島の全島調査を6年がかりで実施した。
 この調査によって、「魚介類を多く摂取し、四肢抹消有意の感覚障害があれば水俣病と認定できる」という診断基準を確立し、この基準をもとに、患者とともに数々の裁判闘争を重ね、多くの患者の救済を勝ち取ってきたと、これまでを振り返った。
 藤野先生は、患者の診察・調査を継続しているが、いまだに認定されていない患者が残り、汚染の全貌は未解明の部分もあり、さらなる調査、研究が必要であるとした。
 カネミ油症については、1968年にカネミ倉庫が製造する食用油にダイオキシン類(PCBなど)が混入し、その食用油を摂取した人々やその胎児に障害等が発生した公害病だが、診断基準が皮膚症状中心であることなどから、多くの被害者は救済を拒否されていると指摘。2012年には、カネミ被害者救済法が成立したが、救済法も認定患者家族内の同居者に認定患者を限定しているという問題があると訴えた。
 保団連や全日本民医連が検診や健康調査を重ねるなかで、直接油を摂取していない子世代、孫世代にも、永久歯の先天性欠如、倦怠感や皮膚症状など、油症の影響である可能性が高い症状を示す人が多いことが明らかになっているとした。
 最後に藤野先生は「水俣病・カネミ油症の被害者が一人残らず救済されることをめざし、今後も引き続き闘う」と今後の抱負を語った。
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