2020年8月05日(1949号) ピックアップニュース
会員インタビュー
戦地の経験の手記を増刷
小野市粟生町で、かかりつけ医として在宅医療と看取りに取り組む傍ら、元従軍看護婦の方の戦地の経験をつづった手記を、自費で増刷して普及されている篠原慶希先生に宮武博明先生がインタビューした。
宮武 先生のご投稿や記事を神戸新聞で拝見し、ぜひお話をお伺いしたいと思っていました。
まず、在宅医療についてお伺いします。在宅医療にはなかなか踏み出せないという医師もおられますが、先生がはじめられたきっかけは何だったのですか。
篠原 この地に開業した2002年、小野市民病院(当時)から、在宅で患者さんを診てくれないか打診されたことです。いざという時の患者さんの対応が心配でしたが、小野市民病院はできる限りベッドを確保するなど、バックアップ体制を充実してくれました。
宮武 できる限り住み慣れた自宅で生活したいという方も増えており、在宅医療の重要性は増しています。ただ、終末期の患者さんの在宅医療はなかなか大変だと考える医師も、特に都市部では少なくないとも感じます。
篠原 もちろん、普段と様子が違うなどのことで、携帯に電話がかかってくることはしばしばあります。しかし、そのことを重く受け止めすぎないことが肝心です。もちろん在宅患者さんに対応するのは医師の役割ですが、すべてのことに一人で対応しなければならないものではありません。連携する訪問看護ステーションでは、看護師が複数人いらっしゃって、交代制で24時間対応してくださります。かかってくる電話にも、面倒だと思わずに、その場で適切に対応すれば、大ごとになることなく解決するケースがほとんどです。
宮武 在宅医療を始めるには、患者さん本人やご家族の方との同意が必要ですが、何か工夫されていることはありますか。
篠原 もちろん最初から在宅でと決めている人は少数です。患者さんからは、在宅を望みつつも「家で暮らしたいけれども、家族に迷惑をかけるのが嫌だなあ」という声や、「面倒を見たいけれども大変そうだ」というご家族の意見もよく聞きます。その時に重要になるのは、ご本人やご家族が「本当はどうしたいか」です。その上で、訪問看護や訪問介護を利用することでご家族の負担も軽減される、またいざという時には、それぞれの地域の基幹病院の、ここでは北播磨総合医療センターですが、バックアップ体制があるということを伝え、患者さんやご家族の不安感を払しょくし、「これなら在宅でも大丈夫そうだ」と思っていただくことが重要です。開業医、看護師、介護士そして病院がチームを組んで対応して、信頼してもらえるので、非常にやりがいを持てる仕事だと考えています。深く考えすぎることなく踏み出してみることが大切だと思います。
宮武 一方で、一人暮らしで在宅医療で診ている高齢者の場合など、孤独死となってしまうケースもありますが、どのようにお考えですか。
篠原 まず強調したいのは、孤独死は悪ではないことです。在宅医療で診ていて亡くなられた患者さんの死亡診断も多数してきましたが、多くは安らかな表情をしておられます。高齢の方が最期まで住み慣れた家で生活して、そのまま寿命を迎えて亡くなるというのは、本人にとっては理想的な死である場合も多いのではないでしょうか。ですので、私は一人で亡くなられた方については、「いわゆる孤独死」と表現するようにしています。
さらに「孤独死」は将来にわたりなくならないのは明らかです。今後高齢者数は増加しますし、それに比例して独居の高齢者の方も増えていきます。これを完全になくすには、高齢者の一人暮らしを禁止するしかないですが、そのような方策は取れるはずもありません。
宮武 一方で、メディアでは、「孤独死」が社会問題としてしばしば取り上げられます。特に神戸では、阪神・淡路大震災後、被災者が暮らす仮設住宅などでの「孤独死」の問題が大きく取り上げられましたが、この点はいかがお考えですか。
篠原 おっしゃるように私も、亡くなられた後に誰にも気付かれないことは問題だと考えています。やはりその根底には、高齢者が社会とのつながりをなくしてしまう「社会的孤立」にあるでしょう。震災時に、いわゆる孤独死が問題となったのも、住居が倒壊して、なじみのない土地での生活を余儀なくされたため、地域のコミュニティから切り離された独居高齢者が生まれてしまったことにあります。地域で日常的に安否確認ができる環境を整えることが重要であり、われわれ地域のかかりつけ医は、訪問診療などを通じて、その役割の中心となるべき存在だと思っています。
宮武 なるほどおっしゃる通り、われわれの重要性を再認識しました。
篠原 治居さんは小野市に在住しておられる、私の患者さんです。現在は小野のグループホームに入所しておられるのですが、そこの職員さんから頂戴したものです。
手記では、戦争体験でもなかなか語られることのない、軍隊での銃後の苦難について書かれています。また、看護婦という視点から兵士の傷病に関する記述が多いのが特徴的です。私の父がかつて軍医をしており、南方のブーゲンビル島に出征していたので、父から軍隊や戦争に関する話を聞くこともあり、思い出しながら読ませていただき、感銘を受けました。私の父もそうだったのですが、戦地に赴いた人は、なかなか戦場での過酷な経験は話されにくいので、この手記は貴重だと思ったのです。
宮武 私の父は満州で医学生の時にシベリア抑留されました。歴史を繰り返さないためにも戦争体験の継承は重要だと痛感しています。手記の内容についてくわしくご紹介いただけますか。
篠原 書かれた治居さんは北海道出身で、看護婦になられたのですが、兵士と同じく「赤紙」で召集され、中国で病院勤務をした時の経験が主に書かれています。戦争に駆り出されて、故郷に帰れないまま亡くなった若者のことなど、具体的に描写されています。戦後に教員免許を取得され、養護教諭となられた時の食糧難の時代の経験にも触れられています。子どもの健康に気を配ってきたこと、情操教育の重要性も強調され、戦争での経験が生かされたのだと感じました。
宮武 増刷した手記への反響はいかがでしたか。
篠原 多くの新聞社からインタビューの依頼がありました。掲載後は新聞読者や、インターネットで記事を読んだという方など、全国から多数の手紙をいただきました。多くは40~80歳代の比較的高い年齢層の方でしたが、高校生など若い人からも反響がありました。寄せられた手紙はすべてこのように保管させていただいています。
宮武 これはすごい量ですね。反響の大きさがよくわかります。協会も手記の普及にぜひご協力させていただきます。本日はありがとうございました。
非常に腰の低い方で、吹田市のご自宅にはほとんど帰宅できていない由。先生のご活躍は、奥様の内助の功の賜物と推察して医院を後にしました。
在宅医療のススメまずは踏み出してみて
小野市 篠原医院
篠原 慶希先生
【しのはら よしき】1950年生まれ。1977年山口大学医学部卒業、国立大阪病院にて研修後、兵庫医科大学第二内科勤務。1989年大阪府青山第二病院副院長として赴任、特養くみのき苑、老健あかしあ、特養希望の丘の嘱託医を歴任。2002年小野市で篠原医院開設、特養粟生逢花苑、特養サンビラこうべ嘱託医を兼任
まず、在宅医療についてお伺いします。在宅医療にはなかなか踏み出せないという医師もおられますが、先生がはじめられたきっかけは何だったのですか。
篠原 この地に開業した2002年、小野市民病院(当時)から、在宅で患者さんを診てくれないか打診されたことです。いざという時の患者さんの対応が心配でしたが、小野市民病院はできる限りベッドを確保するなど、バックアップ体制を充実してくれました。
宮武 できる限り住み慣れた自宅で生活したいという方も増えており、在宅医療の重要性は増しています。ただ、終末期の患者さんの在宅医療はなかなか大変だと考える医師も、特に都市部では少なくないとも感じます。
篠原 もちろん、普段と様子が違うなどのことで、携帯に電話がかかってくることはしばしばあります。しかし、そのことを重く受け止めすぎないことが肝心です。もちろん在宅患者さんに対応するのは医師の役割ですが、すべてのことに一人で対応しなければならないものではありません。連携する訪問看護ステーションでは、看護師が複数人いらっしゃって、交代制で24時間対応してくださります。かかってくる電話にも、面倒だと思わずに、その場で適切に対応すれば、大ごとになることなく解決するケースがほとんどです。
宮武 在宅医療を始めるには、患者さん本人やご家族の方との同意が必要ですが、何か工夫されていることはありますか。
篠原 もちろん最初から在宅でと決めている人は少数です。患者さんからは、在宅を望みつつも「家で暮らしたいけれども、家族に迷惑をかけるのが嫌だなあ」という声や、「面倒を見たいけれども大変そうだ」というご家族の意見もよく聞きます。その時に重要になるのは、ご本人やご家族が「本当はどうしたいか」です。その上で、訪問看護や訪問介護を利用することでご家族の負担も軽減される、またいざという時には、それぞれの地域の基幹病院の、ここでは北播磨総合医療センターですが、バックアップ体制があるということを伝え、患者さんやご家族の不安感を払しょくし、「これなら在宅でも大丈夫そうだ」と思っていただくことが重要です。開業医、看護師、介護士そして病院がチームを組んで対応して、信頼してもらえるので、非常にやりがいを持てる仕事だと考えています。深く考えすぎることなく踏み出してみることが大切だと思います。
宮武 一方で、一人暮らしで在宅医療で診ている高齢者の場合など、孤独死となってしまうケースもありますが、どのようにお考えですか。
篠原 まず強調したいのは、孤独死は悪ではないことです。在宅医療で診ていて亡くなられた患者さんの死亡診断も多数してきましたが、多くは安らかな表情をしておられます。高齢の方が最期まで住み慣れた家で生活して、そのまま寿命を迎えて亡くなるというのは、本人にとっては理想的な死である場合も多いのではないでしょうか。ですので、私は一人で亡くなられた方については、「いわゆる孤独死」と表現するようにしています。
さらに「孤独死」は将来にわたりなくならないのは明らかです。今後高齢者数は増加しますし、それに比例して独居の高齢者の方も増えていきます。これを完全になくすには、高齢者の一人暮らしを禁止するしかないですが、そのような方策は取れるはずもありません。
宮武 一方で、メディアでは、「孤独死」が社会問題としてしばしば取り上げられます。特に神戸では、阪神・淡路大震災後、被災者が暮らす仮設住宅などでの「孤独死」の問題が大きく取り上げられましたが、この点はいかがお考えですか。
篠原 おっしゃるように私も、亡くなられた後に誰にも気付かれないことは問題だと考えています。やはりその根底には、高齢者が社会とのつながりをなくしてしまう「社会的孤立」にあるでしょう。震災時に、いわゆる孤独死が問題となったのも、住居が倒壊して、なじみのない土地での生活を余儀なくされたため、地域のコミュニティから切り離された独居高齢者が生まれてしまったことにあります。地域で日常的に安否確認ができる環境を整えることが重要であり、われわれ地域のかかりつけ医は、訪問診療などを通じて、その役割の中心となるべき存在だと思っています。
宮武 なるほどおっしゃる通り、われわれの重要性を再認識しました。
「銃後の苦難」手記を普及
宮武 先生は、かつて従軍看護婦だった治居冨美さんの手記を増刷して普及されておられると、新聞で拝見いたしましたが、増刷された経緯をお聞かせいただけますか。篠原 治居さんは小野市に在住しておられる、私の患者さんです。現在は小野のグループホームに入所しておられるのですが、そこの職員さんから頂戴したものです。
手記では、戦争体験でもなかなか語られることのない、軍隊での銃後の苦難について書かれています。また、看護婦という視点から兵士の傷病に関する記述が多いのが特徴的です。私の父がかつて軍医をしており、南方のブーゲンビル島に出征していたので、父から軍隊や戦争に関する話を聞くこともあり、思い出しながら読ませていただき、感銘を受けました。私の父もそうだったのですが、戦地に赴いた人は、なかなか戦場での過酷な経験は話されにくいので、この手記は貴重だと思ったのです。
宮武 私の父は満州で医学生の時にシベリア抑留されました。歴史を繰り返さないためにも戦争体験の継承は重要だと痛感しています。手記の内容についてくわしくご紹介いただけますか。
篠原 書かれた治居さんは北海道出身で、看護婦になられたのですが、兵士と同じく「赤紙」で召集され、中国で病院勤務をした時の経験が主に書かれています。戦争に駆り出されて、故郷に帰れないまま亡くなった若者のことなど、具体的に描写されています。戦後に教員免許を取得され、養護教諭となられた時の食糧難の時代の経験にも触れられています。子どもの健康に気を配ってきたこと、情操教育の重要性も強調され、戦争での経験が生かされたのだと感じました。
宮武 増刷した手記への反響はいかがでしたか。
篠原 多くの新聞社からインタビューの依頼がありました。掲載後は新聞読者や、インターネットで記事を読んだという方など、全国から多数の手紙をいただきました。多くは40~80歳代の比較的高い年齢層の方でしたが、高校生など若い人からも反響がありました。寄せられた手紙はすべてこのように保管させていただいています。
宮武 これはすごい量ですね。反響の大きさがよくわかります。協会も手記の普及にぜひご協力させていただきます。本日はありがとうございました。
インタビューを終えて
宮武 篠原先生が、2002年のご開業からの看取りのご経験を熱く語られていたのが印象に残りました。ヒポクラテスのいう、医者の三つの武器「言葉、薬草、メス」に「手当、涙」を追加されて日々の看取りに当たっておられます。また、従軍看護婦の方も「赤紙」で戦地に赴任された事実を盛んに強調されました。ご存知の方は少ないと思います。非常に腰の低い方で、吹田市のご自宅にはほとんど帰宅できていない由。先生のご活躍は、奥様の内助の功の賜物と推察して医院を後にしました。