2022年1月05日(1994号) ピックアップニュース
第98回評議員会特別講演・講演録 朝日新聞編集委員 高橋純子氏
安倍自公政権長期化の背景とは
11月21日に開催した第98回評議員会特別講演「〈無責任な政治〉を生んだ〈責任〉はどこに?−−政治家、選挙制度、マスメディア」の講演詳録を掲載する。
弱まるメディアの権力監視
私は、1993年に朝日新聞社に入社し、西部本社の社会部を経て、2000年に政治部に配属になりました。
政治部の新人は、総理番となります。私の時は、森喜朗首相の動向を24時間監視するのが仕事でした。当時、暗黙のルールとして首相が執務室のドアを開けてから次の部屋のドアを開けて中に入るまでは、話しかけていいということになっていました。ただし、総理の隣につけるのは各社1人だけで、普段は時事通信社と共同通信社が、地方紙に記事を配信しているということで優先権を持っていました。もう一つのルールはその場でメモをしてはいけないというものでした。森総理は言葉数の少ない方だったのでよかったのですが、宮沢喜一首相などは非常に多くのことを話されるので、大変だったと先輩から聞きました。
大事なのは1日に3回も4回も記者が質問をする機会があったということです。次の小泉首相の時代に首相官邸が新しくなると、そうしたことができなくなりましたが、内閣記者会が首相に対して質問の機会が減るので対策をとってくれと要請し、1日2回のぶら下がり取材をしましょうということになりました。
しかし、東日本大震災が起こり、当時は民主党政権でしたが、政権幹部が連日24時間対応に追われていて、ぶら下がりはできませんということになりました。内閣記者会としても仕方ないということで了承したのですが、内閣記者会が記者会見を開くよう要請した際は、きちんと開催するという約束がされました。
その後、安倍晋三首相になり、ぶら下がりが復活するどころか、記者会が求めても記者会見すら開かなくなりました。政治的な疑惑があってもメディアがそれを質す機会が奪われているのです。
確かに記者クラブという体制へ批判があるのも理解できますし、私たちも真摯に反省しなければならないと思います。しかし一方で、先輩記者たちが練り上げた歴史と慣習の中で、権力監視の役割を果たしてきたことは評価されるべきだと思います。そして、それをいったん手放してしまったら、もう一度、勝ち取ることは難しいのです。
安倍政権のメディアコントロール
安倍首相は、会見どころか、野党が憲法53条に基づいて要求しても国会すら開きませんでした。安倍政権が長期的に権力基盤を維持できた背景には、「説明しない」という手法があったことは間違いないと思います。
もう一つの手法は分断統治です。私が総理番をやっていた時代は、首相は単独インタビューを受けないし、記者も単独インタビューを申し込まないという慣習がありました。単独インタビューを受けるということはメディアに対するアメになるわけです。しかし安倍首相になって、政権がメディアを選別するようになりました。安倍政権は自分に味方するメディアを非常に大事にします。一方で自分たちに批判的なメディアには説明責任を果たす必要はないという立場です。ですから、安倍政権が単独インタビューに応じるメディアというのは、雑誌では「WILL」「HANADA」が、新聞では「産経新聞」が断トツに多いです。また、記者会見で質問する記者を指名するのは広報官が行いますが、朝日新聞が指名されることは非常に少なくなりました。
今、首相の記者会見は時間制限があり、途中であっても1時間くらいで打ち切られてしまいます。私たちは、この時間制限を撤廃してくれと申し入れているのですが、内閣記者会が一枚岩になっておらず、申し入れも有志という形になっています。権力側からすれば、「それでいいと言っている社もあるわけだから、要求に応じる必要はない」という論理を与えてしまっています。
以前の内閣記者会は権力に立ち向かうということで、一致して要求をするから、権力の側も聞かざるを得ないような状況をつくっていました。しかし、今の内閣記者会は一枚岩ではありません。これは痛恨の極みです。こうなったのもメディア側の甘さがあったと思います。
小選挙区制を利用して権力を維持
安倍政権は小選挙区制という選挙制度に最適化した政権でした。
たとえば全国に9小選挙区があってそれぞれの選挙区に有権者が9人いたとします。全国の有権者数は81人です。では、何票を得られれば確実に過半数をとることができるかというと、投票率が100%であれば9人中5票をとれる選挙区が5つあればいいわけですから25人になります。つまり投票率が100%でも30.8%の得票率で過半数を握ることができるのです。
しかし、これは投票率が100%だった場合です。実際の総選挙では投票率は60%を切ります。じゃあ、6割を切って各選挙区5人しか投票しない場合はどうなのか。5人中3票をとれる選挙区が5つあればよいので、15人になります。つまり得票率は18.5%になります。
これが小選挙区制の特徴です。ですから、安倍政権は、自分のコアな支持者を固めてしまえば、小選挙区制では基本的に勝てると思っているのです。だから自分の意見に反対する人を説得する必要を感じていないのです。
また小選挙区制では、党の総裁が持つ力が非常に強くなります。一つの選挙区に党公認候補は1人しか立候補できませんから、公認権を持つ党の総裁や幹事長の権力が非常に強くなります。その力で党内の異論を封じることができるわけです。
安倍首相はこの力を最大限に活用しました。「昔の自民党は懐が深かった」などとは言いたくないのですが、中選挙区制は悪い面もありましたが、実際に派閥政治が機能していた時代には、総理・総裁に対してでも、他の派閥から批判の声やブレーキがかかることもありました。
多様性よりも民意を集約してとにかく勝ち負けをはっきりさせるというのがこの小選挙区制の特徴です。
広告代理店的な手法で本質を覆い隠す政治
なぜ安倍政権があれほど長期間権力を握り続けることができたのか。「森友・加計学園・桜を見る会」など信じられないような問題が続き、憲法が禁じている集団的自衛権行使を容認する閣議決定をしてしまう。なのに、支持率が4割を切ることがほぼありませんでした。
一つは安倍首相の言葉の使い方のうまさがあったと思います。例えば「積極的平和主義」と言う言葉ですが、前向きでポジティブなイメージがあります。日本国憲法に書いてある「平和主義」をもっと積極的にしていくのだというイメージで、実際に何をやるのかは全く分かりません。
「アベノミクス」も「1億総活躍社会」、「女性が輝く社会」などもそうですが、総括もないまま、看板だけがどんどん掲げられ、変えられていくという、非常に広告代理店的な手法です。
巧みな野党批判
「野党は批判ばかりだ」という批判があります。この批判は、「安倍政権はとにかく前向きにやろうとしているのだから足を引っ張るな」というイメージに基づいています。背景には若い人を中心に、社会や国家を株式会社のように見ていることがあるとの指摘があります。トップが決めたことに従うのは当たり前だというのは会社の論理です。
一人のリーダーが選挙で勝ったから、そのリーダーに従わなきゃいけないというのは、民主主義の理解として間違っているということを、声を大にして言わなければなりません。
杉田敦・法政大学教授が言っていますが、裁判に例えると野党は弁護人で、立証責任は検察側である政府・与党にあるわけです。野党に対して「批判するなら対案を出せ」などといいますが、それは弁護人に検察がこの人が犯人じゃないというなら、真犯人を連れてこいという論理と一緒なのです。
民主主義や与野党のそれぞれの役割の理解をしっかりしていかなければ、権力を利することになってしまいます。
常套句の危険性
言葉に対する繊細さを私たちは失っているのではないでしょうか。私は以前に、哲学者である古田徹也さん(東京大学准教授)にインタビューをしました。
そこで伺ったことですが、不祥事が起きた時に、「不徳の致すところです」「遺憾に思います」と、政治家や企業家がよく言います。しかし、これらの言葉には「反省している」「ごめんなさい」という意味はありません。さらに「誤解を与えたとしたら、申し訳ない」などと前提条件をつけて謝罪が行われますが、それはもう謝罪じゃない。本来なら、突っ込まないといけないにも関わらず、なんとなく口をつぐんでしまう。こういう常套句を蔓延させてはいけないのではないかということを言っておられます。
古田さんは作家で詩人であるカール・クラウスという人の「もしも人類が常套句を持たなければ人類に武器は不要になるだろう」という言葉を紹介しています。戦争が起きたときには必ず常套句が氾濫しています。日本では「鬼畜米英」「八紘一宇」ですね。ドイツでも同じでした。これは非常に大事な警鐘だと思います。
著名な哲学者である鶴見俊輔氏も「言葉のお守り的使用法について」という論文の中で同じようなことを言っています。権力や権威を持っている人が正当だと認めた言葉を、自分の立場を守るためにお守りのように使っていると、先の戦争のようなことになってしまうというのです。「平和安全法制」とか「女性活躍社会」などの言葉を、中身を検証することなく常套句として使うという危うさを、私たちは肝に銘じておかなきゃいけません。
若い人から可能性を奪う「無邪気な冷笑」
もう一つ、アメリカのジャーナリスト、レベッカ・ソルニットの「無邪気な冷笑」という言葉を紹介します。
私は朝日新聞が持っている大学の講義で学生にこの話をしますが、非常に食いつきが良いです。彼らは頻繁にそういう冷笑に晒されているからです。例えば環境問題とか政治の問題に対して自分が意見を言ったり、社会の矛盾を解決しようと思って活動をすると、「へえ、意識高いね」「へえ、すごいね」と笑われたりあしらわれたりするのです。
冷笑は彼らのやる気を奪い、彼らの気持ちを折ります。冷笑は対話が不可能ですから、批判よりも非常に罪深いものです。批判であればそれを受け止めて、言い返すこともできるし、議論をすることができるので、お互い意見の違いをすり合わせていくことができますが、冷笑はそれができません。
レベッカ・ソルニットはまた、「冷笑家は自分よりも冷笑家でない者に狙いをつける」と言っています。そうすれば冷笑は異論を避ける手段になるからだということです。
安倍首相も国会議論を聞いていると冷笑家ですね。「無邪気な冷笑」が、今、日本社会にはびこって、人の可能性や責任感までも奪い、特にSNSが発達する中で、若い人たちが、今とは違う社会をつくっていきたいという想いや可能性を砕いています。能動的に社会に関わりたいという気持ちは、社会に対する責任を持ちたいということと表裏一体なので、それが潰されてしまうというのは非常に危うい状況だと思います。
既成事実への屈伏を意味する「現実主義」
もう一つ、「現実主義の陥穽」という言葉を紹介します。これは、戦後政治学の権威である丸山眞男氏の論文の中の言葉です。もう70年も前に書かれた論文ですが、今の日本社会においても十分通用する論評だと思います。
『現実とは本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもっぱら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられる時、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです』と言っています。
今回の総選挙においても、例えば国民民主党や日本維新の会などは「現実的選択肢」などと訴えていました。「現実」という言葉は自分たちの価値を一段高いものに見せる効果を日本の中では持っていて、逆に「こういう社会を作りたい」というような言葉は空想主義、夢物語であるというように言われます。「お花畑」などという言い方もされます。
けれども丸山が言うように結局、「現実主義」というのは、今ある現実に屈服するということに他ならないのです。日本社会の中で安全保障について、現状を肯定する主張が「現実的」だと言われて、もう一方が単なる理想論であるかのように言われますが、可能性とは今はないものを信じる力です。今、目の前にないものを信じる力がなければ、私たちはその今ある現実の外には、出られません。だからもっともっと理想を語る側が、自信を持たなきゃいけないと思います。
「誰かが答えを持っている」という考え方を克服しよう
是枝裕和さんという映画監督のインタビューをしたことがあります。是枝さんは新作の映画を上映する際に、ティーチインという一般観覧者と映画関係者が質疑応答を行う機会をよく設けておられます。彼の映画ははっきり答えを出さないものが多いので、質疑では「あの家族はそのあといったいどうなったんですか」というような質問が多いようです。監督としては、その先は観客に委ねたいと思っているそうですが、観客は自分の頭で考えるより、監督と答え合わせをしてスッキリしたいのだと思います。
しかし、こういう反応は海外ではあまりないそうです。映画評論家や観客が、監督に対して、「君は気づいてないかもしれないが、君の映画の本質は〇〇だ」などと、はっきりと自分の意見を言うそうです。
日本では「誰かが答えを持っている」という考え方が強く、その答えと自分の考えが同じなら安心するし、そうでなければその答えに自分の考え方を寄せていくという習慣があるのではないかと思います。これは、学校教育による影響が大きいでしょう。答えというものは所与のものではなく、いろんな議論の中で当座の答えを出して、それを議論して修正して行くものだということが教えられないのです。では、誰が正しい答えを持っているのかというと偉い人だったり政治家だったりということとなり、これが日本で蔓延する権威主義につながっているのだと思います。
立憲民主党の代表選を見ても、間違うということを過度に恐れている印象があります。与党の自民党は「これが答えだ」と上から組織の論理で押し付ける体質です。ですから野党はそれに対して、「みんなで考えて答えを出して行こう」ということを、上手く有権者に伝えていかなければならないのです。