2023年6月15日(2040号) ピックアップニュース
東日本大震災・福島第一原発事故被災地訪問・線量測定レポート
事故の傷跡の深さを改めて思う
元京都大学原子炉実験所助教 小出 裕章氏
兵庫協会は4月29~30日にかけて、東日本大震災・福島第一原発事故の被害が大きい福島県内を訪問。広川恵一顧問が参加し、元京都大学原子炉実験所の小出裕章氏に同行いただき、放射線量の測定・分析を依頼した。小出氏の訪問レポートを掲載する。
今年も駆け足ながら福島を訪問する機会を得た。そのため、4月27日夜、測定器のチェック作業をし、28日に福島市に入った。そして29日に中通り、浜通りの各地を訪れ、放射線量率の測定を行った。今回はその結果を報告する。
まず測定器を自宅の窓辺のカウンター上において、表示される線量率を測定し、次に、自宅で使っている薪ストーブの灰の測定をしてみた。薪は松本市周辺で調達したもので、フクシマ事故の影響を強くは受けていないはずのものであるが、灰には放射性物質が濃縮される性質があるので、PA-100がどのような応答を示すかテストしてみた。薪ストーブの灰は、幅40㎝、奥行き30㎝、厚さ5㎝の灰トレイに集められており、その灰表面に測定器のプローブを近づけて測定した。その後、もう一度カウンター上での測定を行った。その時の線量率の変化を図1に示す。
自宅での自然の状態での放射線量率(BG線量率)は0.034~0.040[μSv/h]程度であるのに対して、灰の表面では0.053[μSv/h]程度を計測し、明らかに灰からの放射線の放出がある。フクシマ事故の強い影響を受けなかったとはいえ、やはり長野県の木材も汚染されたものと思われる。
また、PA-100の動作はこれまでと同様それなりの変動があるが、灰による放射線の増加を検知する程度には有効である。測定値に変動があることを頭に入れて使うのであれば、それなりの情報が得られると判断した。
大宮駅から福島駅まで約1時間の間、線量率の高低はあるが、増加傾向が続いた。ただし、線量率の絶対値は0.024±0.006[μSv/h]で松本の自宅よりむしろ低く、コンクリートの高架構造の場所は汚染の影響を大きくは受けないことが分かる。
走行中の車内、および車から降りた駐車場などでの線量率はおおむね0.04μSv/h程度で、この値が「移染」(普通、「除染」と称されるが、放射能を消すことはできず、ただ単にはぎ取った土などをフレコンバッグに入れているだけなので、正しくは「移染」と呼ぶべきもの)が終わった場でのBG線量率と思われた。ただ、走行中の車でも突然線量率が増加し、コンマ数μSv/hとなることが頻繁に起きた。後に触れるが、特に、楢葉町の宝鏡寺に到着する直前の一般道では突然線量率が上昇を始め、2μSv/h近くまで上昇した。
同じ場で、一緒に調査に当たっていた広川恵一さん撮影の写真(写真[2])では、広川さんの線量計は0.33μSv/hを示している。道路脇にはその場の線量率として0.4μSv/hと表示されていて、私のPA-100はむしろ低い値を表示している。
次に帰還困難区域でありながら、原発事故後早くから自宅に戻った、大久保金一さんをお訪ねした。昨年来た時に比べても、はるかに樹々や花々が多く咲き誇り、まさに「桃源郷」であった(写真[3])。
大久保さんの居宅周辺は一応、移染がなされたようだが、それでも家屋周りでの線量率は0.1~0.2μSv/h程度あった。
広い桃源郷を歩いて線量率を測定すると、高い場所も低い場所もあり、高いところでは放射線管理区域の基準を超え、1μSv/h近い場所もあちこちに存在していた(写真[4])。当たり前のことであるが、移染がなされない場には依然として放射能汚染が厳然として存在している。
大久保金一さんの家は行き止まり道路の先にあり、来た道を引き返した。その道路は狭く、途中すれ違い用に道路が広げてある場がある。車を止めて測定した。舗装道路上でも0.8μSv/h前後の線量率であったが、道路わきの土がむき出しの場に行けば、軽く1μSv/hを超えた。住宅や道路ではなく、移染作業を行っていない場は、やはり汚れたままである(写真[5]・[6])。
そこから今年2月にお亡くなりになった菅野榮子さんの飯舘村のお宅に向かった。菅野さんは、事故後長く伊達市の仮設住宅にお住まいだったが、国が帰還を奨励し、汚染した家屋の取り壊し費用も今でなければ出さないとの脅しの下、飯舘村に帰った。家は新築したが、すでに主のいない家はシャッターが閉められたままであった。
南相馬市の市街地での放射線量率は少し高めでも、おおむねBG線量率であった。南相馬市ではまず詩人の若松丈太郎さんのお宅を訪ねた。原発事故をテーマにした「神隠しされた街」などの詩をつくられた若松さんもすでに2年前にお亡くなりになった。フクシマ事故から10年、どれほど無念の思いを抱えておられたかと思うが、飯舘村の菅野さんと同様に、生あるもの死は必然で、若松さんも85歳で旅立っていかれた。フクシマ事故に責任のある国や東京電力はこうして被害者がみな死に絶えるのを待っているのであろう。
その後、市内の大町病院を訪ね、さらに元市長の桜井勝延さんと会食したが、その間、線量率測定は中断した(図3参照)。
大野駅で、事故当時、副町長だった石田仁さんにお迎えいただき、無人の駅内で大熊町の汚染についてあれこれと教えていただいた。駅構内の線量率はおおむね0.1μSv/hであった。
その後、石田さんに、大熊町内を案内してもらった。駅周辺はほぼ更地になっているが、あちこちに打ち棄てられたままの家屋が12年の歳月を刻んで立っている。こうした家屋もいずれ取り壊され、更地にされ、新たに建物が建てられ、それが「復興」と称されるのであろう(写真[9]・[10])。
近くに大熊町の事故当時の庁舎があるが、そこも打ち棄てられたままで、玄関ドアの先には12年前の行事予定の看板(「平成22年分所得申告 2月10日から3月14日」という表示などがある)がそのままであった。旧庁舎周辺も荒れたままで、コンクリートで覆われていない場に行けば、放射線量率はすぐに放射線管理区域の基準(0.6μSv/h)を超えた(写真[11]・[12])。
次に、石田仁さんのお宅に立ち寄った。木々に囲まれた立派な平屋の居宅の前は広い駐車場になっており、一応の移染作業は行われたのであろう、そこでの線量率は約0.1μSv/h、木が植わっている土の場に行けば約0.2μSv/hであった。
次に、楢葉町との境界近くに建てられた大熊町の新庁舎に向けて移動したが、浜通りの他の場と同様、いたるところにソーラーパネルが敷き詰められていた(写真[13])。放射能汚染地で農業はできないとして、太陽光発電に移行したのであろう。農業に従事してきた人たちにとっては、どれだけ切ない決断であったろうと心が痛む。事故前の大熊町の住人は約1万人だったそうだ。現在も昼間人口は約1万人だそうだが、それは建築労働者などで、旧住民で大熊町に戻った人はお年寄りを中心に400人弱だそうだ。
新庁舎付近には新たにコンパクトタウンが建設されていて、一度は避難した約300人の人たちがこの町に住んでいるそうだ(写真[14])。
新庁舎は立派な建物であったし、その裏にはコンクリート製の武骨な建物があった。原発事故時の対策センター用の建物だそうで、事故時には外部からの汚染した空気の流入を防ぐためのフィルターなども設置されているそうだ(写真[15])。こんな建物を準備してまで原発に縋らなければならない自治体を気の毒に思う。国はそんなことは一向に気にしていないのであろうが...。
新庁舎前は広い広場になっており、そこでの線量率は0.049μSv/hで、すっかり移染されて、新規に造成された土地であることが分かる(写真[16])。
宝鏡寺にはフクシマ事故後10年経った2021年3月に「伝言館」が建てられ、その前には「伝言の碑」が立っている(写真[17])。宝鏡寺住職だった早川篤雄さんが伝言館の館長をしてきたが、2022年暮れにお亡くなりになり、その後、立命館大学名誉教授の安斎育郎さんが館長を引き継いでおり、この日は安斎さんが私たちを迎えてくれた(写真[18])。
伝言館周辺の宝鏡寺境内での線量率は土がむき出しになっている場所でも0.1μSv/hを超える程度であった。
伝言館内部には、日本の原子力開発の歴史、福島原発設置についての資料、さらには原爆やビキニに関する資料など、充実した貴重な資料が多数展示されている。その中には、住民がどのように原子力や原発をとらえ、地域の発展のために期待していたかの展示もある。その結果がフクシマ事故になったことを思えば、胸が痛い(写真[19])。
伝言館に入ったすぐ横には早川篤雄さんの生前の姿を彷彿させる人形が立っており、その胸には「あやまれ、つぐなえ、なくせ原発」というバッジが着いている(写真[20])。
宝鏡寺が今回の福島訪問の最後の場所となり、広野ICから常磐道に乗り、湯本ICで降りたが、走行中の車内では、突然線量率が増加する場所があり、放射線管理区域の基準(0.6μSv/h)を超えた(図3参照)。広野ICの入り口には「最小0.1μSv/h、最大2.1μSv/h」の表示があったが、高速道、一般道を含め、舗装された道路上でもまだまだ汚染は残っているし、移染されていない場にはセシウム137など長寿命の放射性物質による汚染が、事故時のまま残っている。セシウム137の半減期は30年、12年経った今も約8割が残っているし、100年経ったとしてもその汚染は10分の1にしかならない。
5.おわりに
兵庫県保険医協会のご厚意で今回も福島訪問に同行させていただいた。私にとっては、彼らと行動する3回目の訪問となった。
いつものことであるが、行くたびにフクシマ事故の傷跡の深さを改めて思う。今、福島では「復興」が大きな声で語られている。たしかに大型箱物施設が次々と建設され、そのための労働者が住み、平日は道路が車両で渋滞するのだと言う。
でも、本当の意味での「復興」とは、そこに住んでいた人たちの生活を元に戻すことだと私は思う。
1.はじめに
兵庫県保険医協会にお世話になり、これまで2018年9月と2022年4月に福島を訪問した。今年も駆け足ながら福島を訪問する機会を得た。そのため、4月27日夜、測定器のチェック作業をし、28日に福島市に入った。そして29日に中通り、浜通りの各地を訪れ、放射線量率の測定を行った。今回はその結果を報告する。
2.放射線測定器について
放射線測定器はこれまでと同様、堀場製作所製造の放射線サーベイメーターPA-100を使った。その測定器が正常に動作するかどうか、27日に測定器を起動させ、長野県松本市の自宅でテストした。まず測定器を自宅の窓辺のカウンター上において、表示される線量率を測定し、次に、自宅で使っている薪ストーブの灰の測定をしてみた。薪は松本市周辺で調達したもので、フクシマ事故の影響を強くは受けていないはずのものであるが、灰には放射性物質が濃縮される性質があるので、PA-100がどのような応答を示すかテストしてみた。薪ストーブの灰は、幅40㎝、奥行き30㎝、厚さ5㎝の灰トレイに集められており、その灰表面に測定器のプローブを近づけて測定した。その後、もう一度カウンター上での測定を行った。その時の線量率の変化を図1に示す。
自宅での自然の状態での放射線量率(BG線量率)は0.034~0.040[μSv/h]程度であるのに対して、灰の表面では0.053[μSv/h]程度を計測し、明らかに灰からの放射線の放出がある。フクシマ事故の強い影響を受けなかったとはいえ、やはり長野県の木材も汚染されたものと思われる。
また、PA-100の動作はこれまでと同様それなりの変動があるが、灰による放射線の増加を検知する程度には有効である。測定値に変動があることを頭に入れて使うのであれば、それなりの情報が得られると判断した。
3.東北新幹線車内での測定
福島へ行くにあたって、大宮駅から福島駅の間は東北新幹線を利用した。大宮駅で新幹線に乗った時に計測を始め、福島駅に着く直前まで毎分ごとに線量率を読み取った。その記録を図2に示す。大宮駅から福島駅まで約1時間の間、線量率の高低はあるが、増加傾向が続いた。ただし、線量率の絶対値は0.024±0.006[μSv/h]で松本の自宅よりむしろ低く、コンクリートの高架構造の場所は汚染の影響を大きくは受けないことが分かる。
4.福島県内での汚染調査
29日朝7時半に福島駅に隣接したホテルを出発し、飯舘村、南相馬市、大熊町、楢葉町と車で移動した。その間、車中および車から降りた場所で随時線量率の測定を行った。その記録を図3(5面上)に示す。走行中の車内、および車から降りた駐車場などでの線量率はおおむね0.04μSv/h程度で、この値が「移染」(普通、「除染」と称されるが、放射能を消すことはできず、ただ単にはぎ取った土などをフレコンバッグに入れているだけなので、正しくは「移染」と呼ぶべきもの)が終わった場でのBG線量率と思われた。ただ、走行中の車でも突然線量率が増加し、コンマ数μSv/hとなることが頻繁に起きた。後に触れるが、特に、楢葉町の宝鏡寺に到着する直前の一般道では突然線量率が上昇を始め、2μSv/h近くまで上昇した。
飯舘村 大久保金一さん宅
飯舘村には、いまだにフレコンバッグが仮置きされている場がある。道路脇に車を止めて、放射線量率を測定したところ、0.1μSv/hを超えた(写真[1])。同じ場で、一緒に調査に当たっていた広川恵一さん撮影の写真(写真[2])では、広川さんの線量計は0.33μSv/hを示している。道路脇にはその場の線量率として0.4μSv/hと表示されていて、私のPA-100はむしろ低い値を表示している。
次に帰還困難区域でありながら、原発事故後早くから自宅に戻った、大久保金一さんをお訪ねした。昨年来た時に比べても、はるかに樹々や花々が多く咲き誇り、まさに「桃源郷」であった(写真[3])。
大久保さんの居宅周辺は一応、移染がなされたようだが、それでも家屋周りでの線量率は0.1~0.2μSv/h程度あった。
広い桃源郷を歩いて線量率を測定すると、高い場所も低い場所もあり、高いところでは放射線管理区域の基準を超え、1μSv/h近い場所もあちこちに存在していた(写真[4])。当たり前のことであるが、移染がなされない場には依然として放射能汚染が厳然として存在している。
大久保金一さんの家は行き止まり道路の先にあり、来た道を引き返した。その道路は狭く、途中すれ違い用に道路が広げてある場がある。車を止めて測定した。舗装道路上でも0.8μSv/h前後の線量率であったが、道路わきの土がむき出しの場に行けば、軽く1μSv/hを超えた。住宅や道路ではなく、移染作業を行っていない場は、やはり汚れたままである(写真[5]・[6])。
そこから今年2月にお亡くなりになった菅野榮子さんの飯舘村のお宅に向かった。菅野さんは、事故後長く伊達市の仮設住宅にお住まいだったが、国が帰還を奨励し、汚染した家屋の取り壊し費用も今でなければ出さないとの脅しの下、飯舘村に帰った。家は新築したが、すでに主のいない家はシャッターが閉められたままであった。
南相馬市
次に南相馬市に向かったが、村内のあちこちにまだフレコンバッグが残り、車が走っている車内で、管理区域の基準近い線量が計測されることもあった(図3参照)。南相馬市の市街地での放射線量率は少し高めでも、おおむねBG線量率であった。南相馬市ではまず詩人の若松丈太郎さんのお宅を訪ねた。原発事故をテーマにした「神隠しされた街」などの詩をつくられた若松さんもすでに2年前にお亡くなりになった。フクシマ事故から10年、どれほど無念の思いを抱えておられたかと思うが、飯舘村の菅野さんと同様に、生あるもの死は必然で、若松さんも85歳で旅立っていかれた。フクシマ事故に責任のある国や東京電力はこうして被害者がみな死に絶えるのを待っているのであろう。
その後、市内の大町病院を訪ね、さらに元市長の桜井勝延さんと会食したが、その間、線量率測定は中断した(図3参照)。
大熊町
午後に大熊町に向かった。まず新しく建てられた立派な大野駅に行った。駅の駐車場にモニタリングポストがあり、「0.208μSv/h」と表示されていた。私のPA-100の表示は0.095μSv/hで、モニタリングポストの半分以下であった(写真[7]・[8])。私が使用しているPA-100は線量率を低めに評価するようだ。大野駅で、事故当時、副町長だった石田仁さんにお迎えいただき、無人の駅内で大熊町の汚染についてあれこれと教えていただいた。駅構内の線量率はおおむね0.1μSv/hであった。
その後、石田さんに、大熊町内を案内してもらった。駅周辺はほぼ更地になっているが、あちこちに打ち棄てられたままの家屋が12年の歳月を刻んで立っている。こうした家屋もいずれ取り壊され、更地にされ、新たに建物が建てられ、それが「復興」と称されるのであろう(写真[9]・[10])。
近くに大熊町の事故当時の庁舎があるが、そこも打ち棄てられたままで、玄関ドアの先には12年前の行事予定の看板(「平成22年分所得申告 2月10日から3月14日」という表示などがある)がそのままであった。旧庁舎周辺も荒れたままで、コンクリートで覆われていない場に行けば、放射線量率はすぐに放射線管理区域の基準(0.6μSv/h)を超えた(写真[11]・[12])。
次に、石田仁さんのお宅に立ち寄った。木々に囲まれた立派な平屋の居宅の前は広い駐車場になっており、一応の移染作業は行われたのであろう、そこでの線量率は約0.1μSv/h、木が植わっている土の場に行けば約0.2μSv/hであった。
次に、楢葉町との境界近くに建てられた大熊町の新庁舎に向けて移動したが、浜通りの他の場と同様、いたるところにソーラーパネルが敷き詰められていた(写真[13])。放射能汚染地で農業はできないとして、太陽光発電に移行したのであろう。農業に従事してきた人たちにとっては、どれだけ切ない決断であったろうと心が痛む。事故前の大熊町の住人は約1万人だったそうだ。現在も昼間人口は約1万人だそうだが、それは建築労働者などで、旧住民で大熊町に戻った人はお年寄りを中心に400人弱だそうだ。
新庁舎付近には新たにコンパクトタウンが建設されていて、一度は避難した約300人の人たちがこの町に住んでいるそうだ(写真[14])。
新庁舎は立派な建物であったし、その裏にはコンクリート製の武骨な建物があった。原発事故時の対策センター用の建物だそうで、事故時には外部からの汚染した空気の流入を防ぐためのフィルターなども設置されているそうだ(写真[15])。こんな建物を準備してまで原発に縋らなければならない自治体を気の毒に思う。国はそんなことは一向に気にしていないのであろうが...。
新庁舎前は広い広場になっており、そこでの線量率は0.049μSv/hで、すっかり移染されて、新規に造成された土地であることが分かる(写真[16])。
楢葉町
次に楢葉町の宝鏡寺を訪ねた。そこに行くまで、常磐富岡ICから常磐道に乗り、ならはICで一般道に降りた。そして宝鏡寺に向かって走っている車内で突然線量率が上昇していき、カメラで写真を撮る余裕もないままであったが、今回の調査での最高値1.938μSv/hを記録した。何の変哲もない場所でも、強い汚染が残っている場所があるようだ。宝鏡寺にはフクシマ事故後10年経った2021年3月に「伝言館」が建てられ、その前には「伝言の碑」が立っている(写真[17])。宝鏡寺住職だった早川篤雄さんが伝言館の館長をしてきたが、2022年暮れにお亡くなりになり、その後、立命館大学名誉教授の安斎育郎さんが館長を引き継いでおり、この日は安斎さんが私たちを迎えてくれた(写真[18])。
伝言館周辺の宝鏡寺境内での線量率は土がむき出しになっている場所でも0.1μSv/hを超える程度であった。
伝言館内部には、日本の原子力開発の歴史、福島原発設置についての資料、さらには原爆やビキニに関する資料など、充実した貴重な資料が多数展示されている。その中には、住民がどのように原子力や原発をとらえ、地域の発展のために期待していたかの展示もある。その結果がフクシマ事故になったことを思えば、胸が痛い(写真[19])。
伝言館に入ったすぐ横には早川篤雄さんの生前の姿を彷彿させる人形が立っており、その胸には「あやまれ、つぐなえ、なくせ原発」というバッジが着いている(写真[20])。
宝鏡寺が今回の福島訪問の最後の場所となり、広野ICから常磐道に乗り、湯本ICで降りたが、走行中の車内では、突然線量率が増加する場所があり、放射線管理区域の基準(0.6μSv/h)を超えた(図3参照)。広野ICの入り口には「最小0.1μSv/h、最大2.1μSv/h」の表示があったが、高速道、一般道を含め、舗装された道路上でもまだまだ汚染は残っているし、移染されていない場にはセシウム137など長寿命の放射性物質による汚染が、事故時のまま残っている。セシウム137の半減期は30年、12年経った今も約8割が残っているし、100年経ったとしてもその汚染は10分の1にしかならない。
5.おわりに
本当の意味での「復興」とは
兵庫県保険医協会のご厚意で今回も福島訪問に同行させていただいた。私にとっては、彼らと行動する3回目の訪問となった。
いつものことであるが、行くたびにフクシマ事故の傷跡の深さを改めて思う。今、福島では「復興」が大きな声で語られている。たしかに大型箱物施設が次々と建設され、そのための労働者が住み、平日は道路が車両で渋滞するのだと言う。
でも、本当の意味での「復興」とは、そこに住んでいた人たちの生活を元に戻すことだと私は思う。
【こいで ひろあき】1949年生まれ。元京都大学原子炉実験所助教。専門は放射線計測、原子力安全。『原発事故は終わっていない』(毎日新聞出版)など著書多数。2015年3月の定年退職を機に、信州へ移住
図1 自宅での薪ストーブ灰の測定
図2 東北新幹線車内での線量率の変化
図3 福島県内での放射線量率の推移
福島県東部の地図