2023年8月05日(2045号) ピックアップニュース
第101回評議員会特別講演「ポスト新自由主義の経済を考える 身体に向き合う時代へ」講演録
人のための経済へ転換を
はじめに
現在の経済学の主な潮流となっているのは「新自由主義」だ。この批判にとどまらず、コロナ・パンデミックが終焉に向かいつつあると盛んに喧伝されている今、次の一歩、ポスト新自由主義を構想するときが来ている。
コロナ禍が私たちに教えたもの
ポランニーは、人間が労働力という虚構の商品としてグローバル市場に投げ出されると、社会がその弊害から人間を守ろうとして反発し、反対運動が起きたり保護制度ができたりすると論じた。自由主義的な考え方に基づくと、人間は自由に労働力を売買できる。しかし、これは人間にとって快適なものではなく、それに対する防衛の動き、つまり労働運動などの反発が起きる。あたかも物理学の作用と反作用のように、たえず社会のなかに緊張関係を生み出すということだ(図1)。
私はこのメカニズムは基本的には今も有効性をもっていると考えた。ポランニーが見ていた20世紀には、自由主義的市場経済、資本主義の反作用として社会主義・共産主義という形で拮抗しようとする力が働いた。さらにグローバリズムが進み、反作用として、自然が拮抗するようになっている。その一つが生物と非生物の間にあるようなウイルスという形で現れたとみることができるのではないか。
これが私がパンデミックのなかで考えていたことだ。
新型コロナのパンデミックは病気の蔓延、つまり身体に負荷がかかることであるにもかかわらず、「中国が春節なのに日本経済が儲からない」など、徹頭徹尾、経済的問題を中心に語られてきた。
「グローバリゼーション」というとき、金融、流通、情報など、われわれは身体がなく、世界中どこでもやりとりできるかのようにふるまってきた。しかし、実際にはその陰に多数の身体がある。物理的に誰かが物を運んだり、データを処理している。
コロナにより、われわれはこの「身体」に気付かされた。緊急事態宣言のもとステイホームという身体拘束がなされ、一方、介護・看護職、スーパーの店員などは働かないといけないエッセンシャルワークとされ身体労働の問題を明らかにした。
新自由主義とは
「新自由主義」とは、何か(図2)。1930年代頃、世界大恐慌が起こり、各国が保護主義や全体主義をとった。このことに対して、反全体主義、グローバル志向の自由主義を唱えたのが新自由主義だ。戦後、国家が労働者などの暮らしを復興させなければならない時代にはなりをひそめていたが、60~70年代、復興が進んだ頃に急進化して現れた。
チリでは、ピノチェト政権が「社会主義から自由主義を取り戻す」と言い、民営化の推進など新自由主義的政策を採り入れた結果、格差が拡大し、ジェノサイドに並び称せられる厳しい結果を生んだ。
80年代前後には、イギリスのサッチャーやアメリカのレーガンなどが新自由主義的政策をとり、90年代には世界的に波及し、2000年代半ばまで影響力が強かった。
2008年のリーマンショックで行き過ぎた金融化の反省が現れ、潮目の変化があったと感じたが、揺り戻しがあり、新自由主義は現在も力を保っている。
新自由主義の考え方のポイントは、まず民営化(privatization)だ。公的機関は効率が悪いから民営化が必要と言う。日本では小泉政権時の郵政民営化でスローガン的に語られたのが記憶に新しい。
さらに、所有(property)、金融化(financialization)がキーワードになる。株式投資はかつては一般の人々が行うようなものではなかったが、賃金労働者でも購入できるように規制緩和し、労働者にも「あなたも資本家の一部」と言って、「すべて資本家」の世界にしていく。サッチャーの金融ビッグバンが代表だ。
新自由主義は「大きな国家では効率が悪いので小さな国家へ(規制緩和)」と言う。個人の自由を一見保障するようだが、いざ景気が悪くなったとき、大企業、大銀行は潰したら大きな影響が出るからと救われ、個人のセーフティネットは「自己責任」ということで失われている(図3)。
結局、新自由主義は、個人の自由を保障するものではなく、大企業・大銀行に資するものだ。今回のコロナ禍が起こり、個人が危機に陥っても頼る先がない。保健所は対応に苦慮し、経済的に追い詰められても助けはない。
身体性を考える
ポスト新自由主義をどう展望するか。先ほど紹介したカール・ポランニーの考え、さらに、このポランニーから影響を受け、新自由主義が広がった80年代にそうではない社会の在り方を考えた二人の経済学者・玉野井芳郎とイヴァン・イリイチの考えがヒントになると考える。なかでもご紹介したいのは「居住」の問題だ(図4)。
ポランニーは『大転換』で「居住か進歩か」というやや奇妙な二者択一を提示した。新自由主義は「進歩progress」を重要視する。進歩の反対は停滞と思われがちだが、停まっているとき人間は暮らしている。新自由主義がないがしろにしたのは、この暮らしであり、住まうということだとの指摘だ。
イリイチは人の生存に必要な場所が奪われ、住まいはただ疲れて帰ってきて寝て翌朝出ていく、車を止めるガレージのようなものになっていると指摘した。玉野井は生存権を保障する広義の経済、地域主義を模索した。
そして、イリイチと玉野井が最後に着目したのが「水」だ。水は生産できず、基本的には循環しているだけだ。「治水」などと制御しようとするが制御しきれない。農業、工業、生産の営みの真ん中に「水」を位置付けて、代謝のプロセスとして経済を考える。
水と土と、圧倒的エネルギーをもった太陽。それを取り込んで生産を行うのは植物で、微生物や細菌などにも連なる。このようなサイクルを含めて経済を構想しないといけないと玉野井は早い時期に言っていたが、これを引き継いだビジョンを描けていないのが現状だ。
市民の力で「国家の再生」を
ポスト新自由主義社会に向けては、国家、政府をどう動かしていくかだ。個人が自由に行動するだけではだめで、国家に国民・市民が関与していかなければいけない。本来、国家は人々の暮らしを守るためのフレームであるはずだった。しかし、資本や富裕層に国家が収奪され、国家がグローバリゼーションを隠れ蓑に資本に従属してきた歴史がある。その歴史を組み替えて、エコロジーを含むような形で本来の意味での進歩、人びと・社会を開放するような主権国家の在り方をつくっていかなければならない。具体的には、経済の民主的な統制を行い、完全雇用、社会公正、富裕層から貧困層への再分配の実現を包摂するようなビジョンだ。
そのためには貨幣論が重要であり、貨幣の動きを抑制して金融の独り歩きを止めなければいけない。
コロナで明らかになった身体への警告を受け止め、身体の声に寄り添い、政治・経済的には国、政府を、人間的な形に資するような金融も含めて変えていく。一緒になって皆さんとポスト新自由主義を考えていきたい。