2024年1月05日(2058号) ピックアップニュース
新春インタビュー 人生を変えた二つの出来事
無医村にクリニックを開設 大竹 進先生
【おおたけ すすむ】青森市・大竹整形外科院長(整形外科専門医)。1951年北海道生まれ。70年弘前大学医学部入学、76年卒業。83年文部教官助手、86年国立療養所岩木病院整形外科医長、98年大竹整形外科開業。02年「筋ジストロフィーのリハビリテーション」監修(医歯薬出版)、08年「自殺予防活動団体地域交流会」開催(内閣府と共催・銀座)、09~14年青森県保険医協会会長。青森県臨床整形外科医会元県代表
現在、なくそう原発・核燃、あおもりネットワーク共同代表、青森県保険医協会顧問、青森県社会保障推進協議会会長、なみおかSSC理事長
人のためになるなら何でもチャレンジ
大竹 ありがとうございます。今まで大きな二つの出来事が私の人生を変えました。一つは医者になって5年目、筋ジストロフィーの患者さんたちに出会ったことです。大変な病気を抱える目の前の患者さんに、少しでもプラスになることを、「とことんやろう」と、医師としての方針が決まりました。人工呼吸器の鼻マスクを日本に紹介したのもその頃です。当時は、気管切開が普通でしたが「鼻でできる」という論文を当直の夜に見つけました。ミュンヘンの筋ジス学会に参加して、イタリアの医師から学び、使い方のビデオを制作し、それを全国にひろげ、今は標準治療になっています。筋ジスの患者さんを連れて海外旅行もしました。最初のハワイは車いすで、その後のグアムとアデレードでは人工呼吸器を積んで国際線に乗りました。今でも、「そこにいる人のためになるなら、なんでもチャレンジしたい」です。
広川 もう一つはやはり東日本大震災ですね。
大竹 ええ。先ほど紹介いただいた石木先生との出会いも東日本大震災です。石木先生がおられた岩手県立高田病院には整形外科医はおらず、唯一開業医の武田健先生が津波で亡くなり、本当にみなさん困っていました。
「ほっとひと息プロジェクト」と銘打ち、被災者の皆さんに青森の浅虫温泉や大鰐温泉に来ていただいたときに、避難している方が「陸前高田から学校も病院もなくなるかもしれない」と言われました。住民のみなさんの大きな不安にふれ、大変なショックをうけました。
広川 そうした経験から「病院内開業」の方法の研究や無医地区の解消など課題が広がってきたのですね。
大竹 幸い陸前高田では、その後高田病院が再建され、整形外科医も集まりました。こうした状況を見て「共感してくれるお医者さんがいれば、地域医療を支えてくれる」という確信をもち、2012年に岩手県花巻市で「地域医療再生の処方せんを共に考え、明日の街づくりに活かそう」というフォーラムを開催し、15年11月には、広川先生にも参加いただきましたが、無医村の佐井村に、全国から医療関係者、国会議員、自治体担当者をはじめ、同村村長、隣接の大間病院の院長先生に集まっていただき「無医村解消シンポジウムin佐井村」を行いました。
それらを足掛かりに、全国から医師を募りましたが叶わず、それでは私がやろうと、19年4月、将来につなぐため佐井村に診療所を開設したのです。
僻地医療、無医村は大きなテーマ
広川 2016年の保団連の京都での医療研究フォーラムで佐井村の村長から訴えがされましたね。大竹 主催協会である当時の京都府保険医協会の垣田さち子理事長、本日も同席いただいている久保佐世事務局長に課題を共有していただき、佐井村の樋口秀視村長が無医村の実態を訴えました。村長は全国の医師の集まりで話す機会を得て非常に感激され、それまで以上に取り組んでくれました。今は彼の後継者の太田直樹村長が志を継いでくれています。
広川 「僻地での医療」、「無医村」というテーマは医療供給という点で地域を問わず重要な課題と考えます。
先生には12年8月の兵庫協会/西宮・芦屋支部の研究会で、兵庫県但東町で過疎地医療に取り組んでこられた故新田誠医師(元兵庫協会理事、但馬支部長)と一緒に講演いただきました。このコラボは私がそのテーマでお二人を引き合わせたく企画したものでした。
その後、15年1月の兵庫協会/西宮・芦屋支部の震災メモリアルでお話しいただき、同年6月兵庫協会から出版の『巨大災害と医療・社会保障を考える』で「被災地から医療再生と社会保障を考える」、20年8月出版の『東日本大震災・原発震災10年、そのあとに』で「無医村に診療所をつくりました」を執筆いただき、「小さな村の社会実験は、今後深刻化する首都圏の高齢化にも大きなヒントになるはずです」と結ばれています。青森県知事選挙に出られた時も先生は「無医村解消」を公約に掲げましたね。
大竹 そうです。青森県に無医村は二つありますが、無医地区で無医村は佐井村だけで、いま人口は1700人です。佐井村は江戸時代から三上醫院があり、8代目の三上剛太郎は日露戦争に従軍して「手縫いの赤十字旗」を掲げて日露の負傷兵を救い佐井村名誉村民第1号を贈られました。69年に三上醫院が閉院し、村立診療所が引き継ぎましたが、08年に無医村・無医地区になりました。社会保障推進協議会(社保協)で佐井村にキャラバン(県内自治体を訪問し医療・福祉の改善を要請する行動)で行ったときに「あんた方は医者の団体なのだから医者を連れてきてください」と言われました。
知事選挙では落選はしましたけど「かかげた公約は実現する」という思いで私が「診療所を建てる」というと、「国有地を村に払い下げてもらいそこに建てよう」ということになりました。
月に一度土日の診療 オンラインを有効に活用
広川 土地は村から提供してもらい、建物と医療機器は全て先生が負担されたのですか。大竹 そうです。「私の責任で全部やります。村に土地は無償で借りるけど、建物と医療機器は私が全部寄付するか、いらなかったら全部壊して更地にして返します」という契約で、村のリスクはないようにしました。
広川 先生がすべてリスクを引き受けているのではないですか。
大竹 私は6000万円出しましたが、5年間長生きして元気で働いていれば返済できます。青森市からは車で4時間の距離です。月1回、第二土日の診療で1日の外来数は、平均して40~50人。当然、整形外科に関連した疾病がほとんどですが、耳鼻科、眼科等他の診療科がないため、フェリーを使って函館まで通っている患者さんもいるので、専門外の相談にも応じています。
広川 何よりも今年で5年間、一月に一度とはいえ、これまでただの一度の休みもなく継続されたのは大変だと思います。スタッフの方などはいかがですか。
大竹 今7人で行っています。看護師2人、レントゲン技師1人、会計係が1人、運転手1人、薬剤師1人。医療事務は、佐井村と青森市の本院(大竹整形外科)、さらに東京の医療事務担当会社をオンラインで結び、Zoomで会話しながらカルテ入力と会計をリモートで行っています。窓口負担は現地で徴収します。処方箋は大間の薬局にFAXを土、日に送信しておくと月曜日には受け取れるようにしています。
広川 院内調剤と院外調剤を同時にできるのですか。
大竹 佐井村にも隣町にも薬局がありませんので、院内と院外の両方の処方が東北厚生局に特別に認められました。ほとんど院外処方ですが、痛み止め、抗生剤などは院内処方することもあります。車で40分の大間の薬局に患者さんは薬をとりに行きますがバスは週に1便です。私たちが行くのは月に一度なので、それ以外の時は宅急便で薬を届け、オンラインで服薬指導するシステムを構築してはどうかと自治体職員と一緒に研究しています。また、診療所の一角にコーナーを設け、そこに来てもらって、平日オンライン診療ができるのではと考えています。
広川 オンラインだと触診や処置ができません。患者さんとの十分なコミュニケーションといっそうの経験が必要になりますね。
さて、佐井村の診療所づくりは美しい手作り装丁の「さいクリニックな日々1・2」(松田耕一郎さん:運転手・受付事務)を拝見し、スタッフの方々の心配りが感じられました。
大竹 佐井村がこういう状況にあることを理解しながら、自分たちが行っている医療に対して誇りを感じていると思います。また昨日は佐井村から膝が痛いとわざわざ4時間かけて、青森市の私の診療所まで来てくれた人がいました。
原発・基地では幸せになれない
青森は沖縄に並ぶ米軍基地の危険地域
広川 青森が置かれている状況もお話いただきたいと思います。過疎の問題、地域おこしといって原発や基地に依存することを指向する政治の問題があります。これは危険な状態で、沖縄もそうですが、青森はどのような状況ですか。大竹 青森県は今まで「原子力船むつ」「むつ製鉄」など「むつ」と付いた企業誘致に全て失敗してきました。「何かを持ってきて儲けよう」という発想だからうまくいかないのです。現知事も中間貯蔵施設を動かし、核燃マネーを青森県にばらまくといっていますが、そんなことでみんなは幸せになれません。
広川 そうした地域経済の在り方も考えて青森県保険医協会が、「核」の問題でこれまでから現在までとりくまれていることはとても大切だと思います。
大竹 原子力の問題では、もともと青森県保険医協会は「核燃サイクル反対」に限っていました。しかし福島の原発事故で「再処理も、原発もダメ」という方針を出しました。六ヶ所村の再処理施設と同時に大間ではフルMOXという危険な原発をつくろうとしています。
一方で大湊に海上自衛隊の基地がありトマホークを配備する計画です。六ヶ所村に模擬爆弾を間違って落としたが見つからないなど、恐ろしい事故も起こっています。大湊の軍艦から町に向かって機関砲を誤射したという事件もあります(06年9月)。米軍三沢基地に象徴されるように青森は沖縄と並ぶ基地の危険地域です。
敵が攻撃しようとしたら、原発を攻撃すればいいし、直接攻撃しなくても電気を止めれば核爆発します。しかも六ヶ所村には原油タンク51基・日本の石油消費量1週間分の石油備蓄基地があります。もしミサイルが落下し、大火災が起きたら、六ヶ所村の再処理工場も全てアウトになります。核施設なんか置いてはいけない地域です。
広川 青森、下北半島はそういうことで、国民全体の問題として危険な状態で、さらに現在の国際情勢からみても放置できない大きな問題であることがよくわかりました。
歴史を踏まえ、次世代に平和な未来を
大竹 イスラエルのガザへの攻撃を見ても武力で紛争は解決しないことはわかります。去年「2023年は新しい戦前になる」とタモリさんが言いました。日本の近現代史は15年周期で動きます。1931年の満州事変がスタートで45年の敗戦までを振りかえり、現代に重ねれば同じことを繰り返していることがよくわかります。
15年に安倍首相が安保法制を成立させた年をスタートに、世の中の雰囲気が戦争に向かっていっています。もともと医療・社会保障は、平和に暮らせることが前提にあってのことです。憲法の平和的生存権を広げていくことが、今の状況への対抗として切実に求められています。
広川 「歴史を学ばない者は、それを繰り返す運命にある」というジョージ・サンタヤーナの言葉がありますが、一人の人間として、あらゆることに関心をもち、良心を発揮し、平和を追求することは医師としての大切な取り組みですね。
大竹 子どもたちに平和な未来、お互いに大事にしあえる社会を残すことが、私たちの大きな役割です。佐井村の牛滝という地区の小中学校は生徒がいなくなり閉鎖されていましたが、本校の小中学校に通っていた子どもが2人帰ってきて再開され、2人の子どものために4人の先生がついています。新自由主義的な効率を求めて統合が進められているなかで、まったく逆の考え方で「子どもたちの教育が大事」とのメッセージを出したのです。子どものためにできることを考えて、小さな村が行ったことに、私は鳥肌が立つぐらい感動しました。
広川 今日のインタビューは大竹先生の医療の原点からはじまり、現在の課題から将来の話、医療から核の問題となり、平和の課題にひろがりました。一人ひとりの開業医が毎日の診療のなかから、社会問題を常に考えていくことの大切さを思いました。「人のためになるなら、とことんやろう、何でもチャレンジ」。元気と希望の持てるお話しをありがとうございました。
核施設と軍事施設が密集する青森県の下北半島の模様を紹介したDVD「鎌田慧さんと歩く下北半島」
今回の取材で弘前から佐井村・さいクリニックへの移動では六ヶ所再処理工場周辺を青森県保険医協会の元事務局長の中村寛二さん、前事務局長の広野晃久さんに案内していただきました。京都大学原子炉実験所に長年勤められた小出裕章さんから「福島のトリチウムを含む汚染水の海洋投棄ができないと六ヶ所再処理工場を動かせず、日本の原子力政策は根底から崩壊する」と以前よりうかがっていたことと併せて、原子力政策の問題を改めて認識することになりました。インタビューの前に、私の勤務医時代の先輩で現在青森市で開業している八重田医院の円山宏洋先生に会い、彼からも米空軍三沢基地の周辺での数々の事故、基地をもつこと自体の危険性を説明してもらいました。青森協会が普及しているDVD「鎌田慧さんと歩く下北半島 青森の核施設と軍事施設」(なくそう原発・核燃・あおもりネットワーク/青森県保険医会館内)(上)がとても参考になりました。今年から東日本被災と併せ、下北半島の課題を共有するとりくみをすすめたく思いました。
(広川)