2024年7月05日(2074号) ピックアップニュース
[参加記] 東日本大震災・福島第一原発事故 被災地訪問
出会った人々から学ぶ被災13年の課題
副理事長 森岡 芳雄
13年目
3回目の訪問
2度目は、5年目、福島医療生協の齋藤紀先生へのインタビューでした。被曝と小児の甲状腺癌との関係や避難の是非がかまびすしい時期で、根無し草の私にはない、ふるさとへの深い愛着を持った人々への理解なしには、東北の被災はとらえることはできないと考えさせられた訪問でした。
『被曝したくはない』想いは一つでも、『その人生における選択肢は異なる』。被災者の想いに寄り添うことの大切さを多少なりとも阪神・淡路大震災で体感し、意識していたつもりであったにもかかわらず、その奥深さ、難しさを福島の地で、現地医師からの言葉として学びました。
13年目を迎える今回は、被災した人々を訪ねました。
岩手県一関市~宮城県気仙沼市
「地方切り捨て」加速
5月3日、9時に一関市で訪問看護師の菊池優子さんと対面。菊池さんは、被災年の12月に一関市から宮城県気仙沼市の山間部に開設された仮設住宅に片道40~50分かけてボランティアで高齢者への定期的訪問を始め、震災特例一人訪問看護サービスを活用実践し、今日も訪問看護センター所長・医療支援ボランティアとして活動を継続されています。朗らかな笑顔で迎え入れてくださりました。
震災により過疎化が加速し、コロナ禍、診療報酬・介護報酬の削減と続き、訪問看護ステーション、介護施設の廃止に拍車がかかっている現状と、高齢化により独居が難しくなったお年寄りたちが「地域で支援を受けられないがゆえに故郷を再び離れ、家族のいる先に身を寄せざるを得なくなってきている」「支援者も高齢化してきている」お話を聞かせていただきました。政府の医療・介護・福祉・教育の軽視政策が被災地に、より大きな負担を課していることを確認しました。
気仙沼市に移動し、医療ボランティアコーディネーターの村上充さんと合流し、災害復興住宅で暮らす鈴木冨喜子さんを訪問。鈴木さんの語りからうかがわれる復興住宅での人と人のつながりや外出機会の少なさ。村上さんが続けてこられた「声なき者の声をいかに周囲に届け、支援の輪をひろげるか」。個人を大切にするということが、今の日本の政策からいかに零れ落ちてしまっているのかを体験した瞬間でした。鈴木さんは初対面の私にも優しく、自作の携帯ストラップをプレゼントしてくださいました。
村上さんから気仙沼市の二つの看護学校が閉鎖されたとの報告があり、「避難により若者が少なく、看護学校進学者がおらず、卒業しても地元医療機関に残る者が少ない」と現状が語られました。
「地方切り捨て」が、被災地にはより過酷な仕打ちとなっています。能登にも行かなければと思いました。
気仙沼市ではもう一人、すがとよ酒店の菅原文子さんにお会いしました。津波でご主人と義父母を目の前で失くされた経験を乗り越え、100年続く酒屋を再建・継承し、息子さんとともに地元のお酒を販売する傍ら、店舗の2階にミニホールを設け、地域にコミュニティの場を提供する活動を行っておられました。終始笑顔で前を向いておられるような表情がとても印象的でした。
福島県福島市~飯舘村
飯舘村の「までい」感じる
福島市へ移動し、福島県保険医協会理事長の松本純先生と菅原浩哉前事務局長と夕食を共にし、医療・介護の後退局面について、お話を伺いました。
5月4日は、飯舘村で避難指示解除前からお母様の願いを叶えるために帰郷され、お母様の死後も暮らされている大久保金一さん宅の訪問から始まりました。向かう山間の道路では、車内からの測定でも0.4~0.6μSv/h、住宅周辺は除染され0.1~0.15μSv/h程でした。
大久保さんが丹精に作られている広大な花園は満開の桜並木。その花園の奥の山林近くは、1.0μSv/hと高値でした。
次に、同じ飯舘村の菅野芳子さんのお宅で、高橋トシ子さん、籏野梨恵子さんの3人の方にお会いしました。
菅野芳子さんは、映画「飯舘村の母ちゃんたち 土とともに」に亡くなられた菅野榮子さんと出演された方で、ゆっくり、ていねいな、人と自然のつながりを大切にしたこの地域の「までい」と呼ばれる生き方を大切にしてこられた方で、飯舘村の伝統的な食文化を今も伝え続けておられます。3人の語らいから、「までい」を肌で感じさせていただき、手作りの「凍み餅」をいただいてしまいました。菅野榮子さんのお墓参りもさせていただきました。
福島県南相馬市~大熊町~楢葉町
語られない思い・無念
南相馬市に入り、大町病院で猪又義光院長・藤原珠世看護部長と懇談させていただきました。行政との連携を意識し、地域になくてはならない病院として、独自の看護師確保施策を講じられ、成果を上げておられました。藤原さんが今回の診療報酬改悪にもめげずに看護部門での経営的な対策を見据えておられたことに驚きました。
その後、23年7月に開館した『おれたちの伝承館』を訪れました。長年放置されていた倉庫を「原発事故や福島のそれぞれの記憶を自分の表現(複合アート)で語り継ぐきっかけになれば」と除染、改修されたとのことで、写真家で館長の中筋純さんや運営スタッフの地元の方々とお会いすることができました。
入り口近くの和紙などでかたどられた仔牛の死体はショッキングでしたし、『貝からのつぶやき』と題するいくつもの小箱の中に貝とともに添えられたつぶやきには、表立って語られることない思いが表現され、作品がそれぞれに事故を語っていました。官製の伝承記録にはない生々しさを、気持ちを感じました。
大熊町では、元副町長で震災時の避難、震災後の復旧に自治体幹部として関わられた石田仁さん宅をお訪ねしました。言葉少なに語られる奥に震災当時以降のいろんな思い・無念が飲み込まれているように感じました。
楢葉町で、50年近く前から反原発運動にかかわっておられた故早川篤雄住職の宝鏡寺にある「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝言館」を訪れました。夫人の千枝子さんが遺志を引き継ぎしっかりと伝言館を守られている姿に、敬意と信念、愛情の強さをひしひしと感じました。
原発悔恨・伝言の碑には、「電力企業と国家の傲岸に 立ち向かって40年力及ばず 原発は本性を剥き出し ふるさとの過去・現在・未来を奪った 人々に伝えたい 感性を研ぎ澄まし 知恵をふりしぼり 力を結び合わせて 不条理に立ち向かう勇気を! 科学と命への限りない愛の力で!」と刻まれていました。
福島県いわき市
漁業者の苦悩うかがう
いわき市の「漁のやりがいを奪われた。震災で漁師だけでなく、廃業・転業を余儀なくされた漁業に関わる方が数多くいる。漁は解禁されたが、仲買人や卸、加工業者が以前のように戻ってきていないので、漁獲高は3分の1程度。ALPS処理汚染水の海洋投棄で、さほど大きな影響は今のところ出てはいない」とひとまず安堵されているご様子。
言葉を選ぶ必要があるとは思いますが、ALPS処理をしてもトリチウム以外にも取り切れなかった放射能汚染物質が含まれている汚染水が実際に投棄されているわけですから、「風評被害」ではなく実害であり、また、希釈していても、なお増え続けていくわけで、総量的には際限がなく、良いわけがありません。
『放射性物質はほぼ検出限界以下』というのは、押し付ける国の論理です。福島県最南端の勿来漁港は、茨木県平潟漁港と300mと離れていません。組合長は「海は続いている。あの小さな岬の先を回った平潟漁港で水揚げされた魚は以前から流通している」と語られました(平潟漁港再開11年9月から。勿来漁港試験操業13年10月から、魚市場開場21年9月から)。
「誰も放射能汚染に晒されたものを獲ろうとは思っていない。市場に出して食卓に並べてほしいとは思っていない。しかし、自分たちにも生活がある」
懇談の間中、組合長の表情に晴れやかなものを見ることはできませんでした。
固く粘り強い信念受け継がなければ
被災地でお会いできた、いずれの方も70代、80代の方が多く、今のままでは過疎と高齢化の中で置き去りにされ、大切な文化や美しい自然が失われていくと感じました。「あんな高い防潮堤が要るのか。きれいな海が、海岸線が全く見えない。宅地などの高台移転だけで十分ではなかったのか」漏らされた言葉に被災地の人々とは離れたところで決まっていく異様な復興を感じました。
廃炉にどれだけかかるのかは分からなくても、人々の生活は、地域は、もっと早い時期にもっと再興できたのではないか!? 公助を抑制し、地域の共同体意識を悪用し、自助・共助を誘導していやしないか? 能登半島地震を見るにつけ、阪神・淡路大震災から30年を経ても何も変わらぬ被災者対策。震災を利用した地方統廃合推進計画を東日本大震災で見出したのではないかと考えざるをえませんでした。たくさんの耕作放棄地を見ました。荒廃していく里山だらけでした。
真新しい設備の整った戸建て公営住宅に入る人の半分くらいは、廃炉や除染の原発労働者や土地開発業者で、人口回復指標の水増しになっています。被災地の原発依存は、今も続いています。
国民、地方、自然、一次産業--この国の政府は、基盤となるものを追い込み、廃らせ、見捨てて、どうしようというのでしょうか?! 改めてこの国の政治の無能、腐敗に憤りを感じずにはいられませんでした。
故郷を想い、「自分たちでやりとげるぞ!」という固く粘り強い信念が、今回出会うことのできた方々からにじみ出ていました。「私たちも受け継がねばならない」と願うばかりでした。
この13年間、見て、ほとんど何もしてこなかった、見ぬふりをしていたのと同じ自分。やはり自分の脚でこの東北の地を訪れようと今まで以上に思いました。