2024年8月05日(2077号) ピックアップニュース
特別インタビュー
「珠洲原発」計画反対運動に学ぶ 人を差別する原発でなく、平等な社会を
石川県珠洲市高屋町 浄土真宗大谷派 圓龍寺(えんりゅうじ)住職
塚本 真如(つかもと まこと)
今年1月1日の能登半島地震から半年余り経つが、いまだ多くの被災者が避難を続け、住宅の解体も進んでいない。この地震では原発も大きな被害を受けた。福島第一原発事故を受け停止中だった石川県の志賀原発、新潟県の柏崎刈羽原発で、地盤沈下や変圧器の絶縁油漏れ、建物のひび割れなど多数のトラブルが報告されている。
震度6を記録し大きな被害を受けた珠洲市でもかつて原発建設計画が持ち上がったが、住民の30年近い粘り強い反対運動の結果、凍結されている。この反対運動の中心を担った同市高屋町の圓龍寺住職である塚本真如さんは、今回の地震で寺が全壊するなど被災した。避難先である加賀市内の宿舎を7月3日、広川恵一顧問が訪れ、今回の地震の被害、原発反対運動の経過や教訓について話を聞いた。
阪神・淡路大震災からは来年で30年になろうとしていますがいろいろな問題が残っています。たとえばアスベスト曝露による被害は40年前後の潜伏期を経て、さらにこれからです。災害はそのときで終わりでなく、潜在化された、いろいろな問題が顕在化してきます。
塚本さんには、3月16日に西宮・芦屋支部と環境・公害対策部で実施した小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)の講演会の際、ちょうど大阪におられたのでお越しいただきました。ありがとうございました。
塚本 こちらこそ、原発の危険性について以前お話いただいた小出さんと、久しぶりにお会いすることができました。
広川 そのときにもお伺いしましたが、改めて本日、地震による被害や珠洲原発建設を阻止するためにがんばってこられたご経験を伺いたいと思っています。塚本さんたちがなさってこられたことは全国の励みになっています。
今回の地震で、お寺は全壊されたそうですね。
塚本 1回目の揺れの後、本堂を確認に行ったときに、2回目の揺れが来ました。立っていられないほど大きな揺れで、生活している庫裏に戻るとそちらがぺしゃんこにつぶれ、妻の唸り声が聞こえるんです。足が挟まれていたのを何とか助け出しましたが、車もつぶれていたので、近所の人の車に乗せてもらい、車中泊を数日していました。当時、電話はかろうじてauだけが通じる状態。自衛隊が数日して入ってきて、ヘリで高齢者の方と妊婦さんとともに金沢へ運ばれました。現在、妻は娘がいる北海道の病院でリハビリ中で、やっと杖をついて歩ける状態です。
広川 塚本さんはお一人でこちらに二次避難されておられます。現在お寺はどうなっているのでしょうか。
塚本 立ち入れる状態ではありません。本堂は1948年建立の古い建物のため維持が大変で、門徒さんに負担をかけるものとなっていたので、なくなったことで気持ちの上ではすっきりしています。当寺は浄土真宗ですが、親鸞聖人の精神では、あんな立派な建物はいりません。
広川 地域としても大きな被害だったでしょう。
塚本 私の住む高屋地区は、古地図では「高屋村」と書いてあります。日本海を航行する北前船の風待ち港であり、半農半漁の土地です(5面地図参照)。
地震と土砂崩れによる被害が大きく、崖がいつ崩れるかという状態で住んでいる家も多くあります。
海底が2m隆起し、港が浅くなったため船が出られない状態が続いており、漁師は海へ出たがっています。日本海に面している高屋では年中港に出られるわけではありません。3月20日頃から11月10日くらいまでは可能ですが、冬は月に数日出られる日があるかどうか。今年は海に出られないまま夏になってしまっており、漁師の方々は生業ができずに無収入の状態が続いています。
規模が小さいからと高屋は後回しにされていますが、工事さえできれば生業を再建できると思っています。
広川 実に生活再建が急がれますね。
広川 珠洲原発誘致計画の経過についてお伺いします。計画は70年代に始まり、北陸電力だけでなく、関西電力・中部電力の3社が進め、特に関西電力が中心になったとのことですね。
75年には珠洲市議会が、原発建設に向けての調査と原子力船が寄港できる港とすることを求めています。
86年にチェルノブイリ原発事故が起きましたが、その2カ月後にも市議会は原発を誘致する決議を上げ、原発事故があっても計画は進められました。これはなぜなのでしょう。
塚本 当時、原発はバラ色の産業という明るいイメージがありました。珠洲市は漁業以外の産業が土建と市役所くらいしかなく、誘致が必要と考えたのだと思います。
広川 市が原発誘致を進めようとするなかで、塚本さんは原発誘致計画に反対し、住民の方々とともに計画阻止のために座り込みや共有地、また市長選挙など様々な闘いをされています。計画は最終的に2003年12月に凍結されるに至りました。
30年近く大変なご苦労だったと思いますが、その原動力は何だったのでしょうか。お父さんに肩を押されたという話も聞きました。
塚本 法学者だった父は、私が大谷大学に進み寺を継ぐと決めると「本当にやるのか。強い者の味方をしたら坊主じゃない。右か左か迷ったら、絶対に困難な方を選べ」と言っていました。
そのときはそれほど深く受け止めていなかったのですが、卒業してさまざまな書物を読み、親鸞聖人の言う「浄土を願って生きろ」は「平等な世界を願って生きろ」ということであり、不平等なことはそれに逆らうことで、その実現をめざす姿勢が大事と学びました。そして振り返ると、親父は、仏教の本を一冊も読んだことがないのに「同じことを言っていたんだな」と気付きました。
広川 お父さんの言葉と親鸞の言葉が、塚本さんの原動力なのですね。
塚本 当初から原発はよくないものだという思いは持っていましたが、詳しくは分からないので、原発推進・反対どちらもさまざまな方から話を聞き、本を読みました。
その頃、東本願寺へ年間60日間ほど行っていましたので、湖西線まわりでいくと近いのですが、美浜・敦賀・高浜の原発近くを通るようにして、地域の方にお話を聞きました。原発周辺では、2人いたら相手を気にして誰も原発のことを話してくれませんでしたが、一人なら意見をなんとか聞くことができました。
敦賀では、西本願寺派の住職・立花正寛さんのお話が印象的です。「私はがん以外で亡くなった人の葬式をしたことがない」と言われ、ご本人もがんで亡くなりました。ホットスポットで放射能が強い地域だったらしいのですが、門徒さんが20人くらい集まって、「息子とられてなあ」などと話をしてくれます。「とられて」の意味が分からなくて尋ねると「原発で死んだってこと」と。そんな人が何人もおられるのに皆、福井県ではなく舞鶴の病院で死ぬので京都で死んだことになっているんだと話されました。
原発に反対すると嫌がらせがひどいという話も聞きましたので、覚悟して地域の皆にも伝えました。実際に、私の寺には10年間4時間おきに夜中も無言電話が続きました。人が亡くなったらすぐかけつけるという風習の地域ですので、電話が鳴ったら夜中でも出ないといけません。いやがらせの手紙は何百通も来ましたね。
広川 電話に出られることが多かった奥様は、電話に出るのが楽しみになってきたと言っておられますね。
塚本 妻をはじめとした女性たちが、嫌がらせに負けずに非常にがんばってくれました。それがなかったら止められなかったと思います。
広川 見張り小屋を作って皆で関電の行動を監視していたそうですね。
塚本 はい。関電に測量をさせないためです。
また、原発の専門家を呼んで学習会を行いました。大阪大学理学部講師だった久米三四郎さんが最初で、放射能の危険性について詳しく教えていただきました。住民の人たちを誘っても「あんなところいったら大変やぞ」などと言われましたが、20人ほどが来てくれました。小出裕章さんにご連絡して来ていただいたのも、彼の影響です。
広川 この秋、西宮・芦屋支部でアイリーン・美緒子・スミスさん(環境活動家)にご講演いただくのですが、彼女も「珠洲で僧侶の方々の中に入って、一緒に原発建設反対のビラを配った」と仰っていました。
塚本 はい、アイリーンさんにも来ていただきました。実は昨日(7月2日)、国会議員会館で反原発の院内集会があり発言したのですが、そこでもお会いしました。
塚本 志賀原発周辺地域でも、建設計画地に住民が共同で土地を購入して計画を阻止しようとしました。しかし、北陸電力がその土地を計画から外し、建設を進めてしまったのです。それを見ていた私たちは、共有地は近くに固めるのではなく、まばらに作らないといけないと考え、実際にそうしました。
ただ、共有地を作るのは非常に難しいことでした。住民同士で土地を共有するというのは「一人だといつ電力会社に売るか心配なので一緒に持ちましょう」ということです。相手を信頼しているのかという話にもなり、不信を生みかねません。
広川 そのように共に行動しないといけないほど、原発建設推進の動きは強かったんですね。
塚本 珠洲の場合、まずは「珠洲方式」という、住民と電力会社とのやりとりの仲介を行政が行うというやり方で、計画が進められようとしました。しかし、これはうまくいきませんでした。「私のこの田んぼはいくら?」と具体的な話となると、市役所職員は答えられません。すると、電力会社が入ってくるようになったのです。
原発の必要性を説明する会なども開かれました。忘れもしません。最初にジャーナリストの俵孝太郎さんが話をするというので聞きに行ったんですが、「お前ら」と始めるんです。「お前らからもらっている税金は微々たるもの、やっとお前らが国に役に立つときがきた」「原発はいいことなんだ」と。失礼で、われわれを馬鹿にしていると思いましたね。
そして実際に動くのは関電社員ではなく、原発建設の入札が決まっていた清水建設系の会社の社員でした。何度も訪ねてきて、直接来たら絶対に会わないのですが、お寺の門徒さんを通じて会ってくれと言われると会わざるを得ません。彼らは入ってくるなり、「塚本さん、原発に賛成してもらったら、ばーんとお寺も庫裏も建て直します。3億円あげます」などと言います。私は「立派な建物があれば立派な寺というわけではありません。どんな人が住んでいるかで寺ができるのです」と返しました。妻は通帳を示されて「この通帳に一桁増えるんですよ」などと言われたそうです。
広川 そんなやり方をしなければ作ることができないということであれば、原発建設は非常に不正で危険なものだと思います。マイナ保険証もそうで、絶対的な必要性がなく使う人が少ないので、「保険証として使う人が増えたら、何十万円やる」と平気で言うようなことを国がします。
塚本 建設計画地の住人は、珠洲市の中心街で何を買っても食べても「高屋のだれだれ」と言えば無料になり、病院に行きたいというと迎えが来たということがあったようです。
私が市街地のお店で食事をしたとき、店員さんが「かーさんにつけときますね」と言われて、女将さんがあわてて「塚本さんにそれを言ったらあかん」と言われたのを聞いて、ぴんときました。
広川 「かーさん」とは関西電力のことですね。
塚本 はい。他にも当時、「3せる」「5せる」という言葉がありました。「飲ませる」「食わせる」「握らせる」。これで大体の男は落ちる。それでも落ちないと、「抱かせる」「えばらせる」。これで皆落ちると、彼らはそんな哲学を持っていたのです。
住民は皆、賛成反対は別として、「なんでこんな田舎につくるんだろう。大都会に作ればいいのに」「こんなところに持ってくるなら危険なものなんだろう」という思いはあったでしょうが、こういうやり方で推進派を増やしていったのです。
広川 疑問を持っていても、電力会社がいろいろと攻勢をかけてくるなかで、住民は賛成・反対で分かれてしまいます。
そのなかでも、塚本さんは「推進派の人を悪く言ってはいけない」との立場を貫かれたと伺っています。
塚本 はい。「原発はだめだが、その人のことは悪くいうな」と徹底していました。
なので、計画の凍結が決まったら、分かれていた住民もすぐに仲良くなりました。
広川 分断がはかられるなかで、何が本当に大切なのか、よく考えて行動していくことが大事だとよく分かります。
塚本 私にとっては、平等な世界を願うという親鸞聖人の教えでした。多くの人にとってはやっぱり仕事、生業から離れたくないということが強かったと思います。
印象深い言葉があります。石川県は保守王国で、市や県、国の言うことに逆らってはいけないと黙っている人が多いと思います。あるとき、同じ真宗の住職で、兵庫県たつの市におられた藤元正樹さんに「能登は優しや土までも」という言葉があると言ったら、「要するに人殺しですね」と言われました。意味が分からず「どういうことですか」と聞くと、「議論しないということでしょう。自分の人格も相手の人格も育たない」と。
広川 「能登の優しさ」とは本来的なやさしさだと思いますが、原発計画を巡っては藤元住職の言葉のような状態だったわけですね。
塚本 そうです。珠洲に原発をという話があった当初、私は原子の力を発見したアインシュタインは何ということをしたのだと思っていました。しかし後に、彼が死ぬ前に「世の中を悪くしようという人が世の中を悪くしているのではない。悪いことを見たり聞いたりしている私たちが口をつぐんでいる。それが世の中を悪くしている」と自分のことを含めて言っていると知って、すごいなと思いました。
広川 行動しないといけないということですね。これらの言葉が原発反対の運動のなかでずっと響いていたのですか。
塚本 響いていました。やはり原発は本当に人を差別するものだと思います。
広川 今回の地震で、もし珠洲に原発ができていたらと思うと恐ろしくなります。
今後の地域の再建についてどうお考えでしょうか。
塚本 よそと比べる必要はない、東京になる必要はないという思いがあります。
今、地震に遭って子どものところに避難した人が、珠洲へ帰ってきています。「私は泥触わっとらんとあかんわ」と。膝が痛い、腰が痛いと言っているばあちゃんたちが、海に岩海苔をとりに行ったら、畑に行ったら、誰もそう言わなくなる。そして隣の人が困っていたら助ける、本当にいい地域なんです。まずは漁業の再開のため、早く港が使えるようにしてほしいと思います。
広川 それが地域の本来の姿だと思います。生業の復興をこころより願います。
原発をなくすため、本日伺った話を今後の活動につなげていきたいと思います。ありがとうございました。
震度6を記録し大きな被害を受けた珠洲市でもかつて原発建設計画が持ち上がったが、住民の30年近い粘り強い反対運動の結果、凍結されている。この反対運動の中心を担った同市高屋町の圓龍寺住職である塚本真如さんは、今回の地震で寺が全壊するなど被災した。避難先である加賀市内の宿舎を7月3日、広川恵一顧問が訪れ、今回の地震の被害、原発反対運動の経過や教訓について話を聞いた。
能登半島地震で大きな被害
広川 能登半島地震から半年が過ぎましたが、関連死や復興計画など課題が非常に多いと思います。阪神・淡路大震災からは来年で30年になろうとしていますがいろいろな問題が残っています。たとえばアスベスト曝露による被害は40年前後の潜伏期を経て、さらにこれからです。災害はそのときで終わりでなく、潜在化された、いろいろな問題が顕在化してきます。
塚本さんには、3月16日に西宮・芦屋支部と環境・公害対策部で実施した小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)の講演会の際、ちょうど大阪におられたのでお越しいただきました。ありがとうございました。
塚本 こちらこそ、原発の危険性について以前お話いただいた小出さんと、久しぶりにお会いすることができました。
聞き手 広川 恵一顧問
広川 そのときにもお伺いしましたが、改めて本日、地震による被害や珠洲原発建設を阻止するためにがんばってこられたご経験を伺いたいと思っています。塚本さんたちがなさってこられたことは全国の励みになっています。
今回の地震で、お寺は全壊されたそうですね。
塚本 1回目の揺れの後、本堂を確認に行ったときに、2回目の揺れが来ました。立っていられないほど大きな揺れで、生活している庫裏に戻るとそちらがぺしゃんこにつぶれ、妻の唸り声が聞こえるんです。足が挟まれていたのを何とか助け出しましたが、車もつぶれていたので、近所の人の車に乗せてもらい、車中泊を数日していました。当時、電話はかろうじてauだけが通じる状態。自衛隊が数日して入ってきて、ヘリで高齢者の方と妊婦さんとともに金沢へ運ばれました。現在、妻は娘がいる北海道の病院でリハビリ中で、やっと杖をついて歩ける状態です。
広川 塚本さんはお一人でこちらに二次避難されておられます。現在お寺はどうなっているのでしょうか。
塚本 立ち入れる状態ではありません。本堂は1948年建立の古い建物のため維持が大変で、門徒さんに負担をかけるものとなっていたので、なくなったことで気持ちの上ではすっきりしています。当寺は浄土真宗ですが、親鸞聖人の精神では、あんな立派な建物はいりません。
広川 地域としても大きな被害だったでしょう。
塚本 私の住む高屋地区は、古地図では「高屋村」と書いてあります。日本海を航行する北前船の風待ち港であり、半農半漁の土地です(5面地図参照)。
地震と土砂崩れによる被害が大きく、崖がいつ崩れるかという状態で住んでいる家も多くあります。
海底が2m隆起し、港が浅くなったため船が出られない状態が続いており、漁師は海へ出たがっています。日本海に面している高屋では年中港に出られるわけではありません。3月20日頃から11月10日くらいまでは可能ですが、冬は月に数日出られる日があるかどうか。今年は海に出られないまま夏になってしまっており、漁師の方々は生業ができずに無収入の状態が続いています。
規模が小さいからと高屋は後回しにされていますが、工事さえできれば生業を再建できると思っています。
広川 実に生活再建が急がれますね。
原発計画反対原動力は
75年には珠洲市議会が、原発建設に向けての調査と原子力船が寄港できる港とすることを求めています。
86年にチェルノブイリ原発事故が起きましたが、その2カ月後にも市議会は原発を誘致する決議を上げ、原発事故があっても計画は進められました。これはなぜなのでしょう。
塚本 当時、原発はバラ色の産業という明るいイメージがありました。珠洲市は漁業以外の産業が土建と市役所くらいしかなく、誘致が必要と考えたのだと思います。
広川 市が原発誘致を進めようとするなかで、塚本さんは原発誘致計画に反対し、住民の方々とともに計画阻止のために座り込みや共有地、また市長選挙など様々な闘いをされています。計画は最終的に2003年12月に凍結されるに至りました。
30年近く大変なご苦労だったと思いますが、その原動力は何だったのでしょうか。お父さんに肩を押されたという話も聞きました。
塚本 法学者だった父は、私が大谷大学に進み寺を継ぐと決めると「本当にやるのか。強い者の味方をしたら坊主じゃない。右か左か迷ったら、絶対に困難な方を選べ」と言っていました。
そのときはそれほど深く受け止めていなかったのですが、卒業してさまざまな書物を読み、親鸞聖人の言う「浄土を願って生きろ」は「平等な世界を願って生きろ」ということであり、不平等なことはそれに逆らうことで、その実現をめざす姿勢が大事と学びました。そして振り返ると、親父は、仏教の本を一冊も読んだことがないのに「同じことを言っていたんだな」と気付きました。
広川 お父さんの言葉と親鸞の言葉が、塚本さんの原動力なのですね。
原発の危険性先人・学者から学ぶ
広川 原発建設計画を止めるために、どのようなことをされたのですか。塚本 当初から原発はよくないものだという思いは持っていましたが、詳しくは分からないので、原発推進・反対どちらもさまざまな方から話を聞き、本を読みました。
その頃、東本願寺へ年間60日間ほど行っていましたので、湖西線まわりでいくと近いのですが、美浜・敦賀・高浜の原発近くを通るようにして、地域の方にお話を聞きました。原発周辺では、2人いたら相手を気にして誰も原発のことを話してくれませんでしたが、一人なら意見をなんとか聞くことができました。
敦賀では、西本願寺派の住職・立花正寛さんのお話が印象的です。「私はがん以外で亡くなった人の葬式をしたことがない」と言われ、ご本人もがんで亡くなりました。ホットスポットで放射能が強い地域だったらしいのですが、門徒さんが20人くらい集まって、「息子とられてなあ」などと話をしてくれます。「とられて」の意味が分からなくて尋ねると「原発で死んだってこと」と。そんな人が何人もおられるのに皆、福井県ではなく舞鶴の病院で死ぬので京都で死んだことになっているんだと話されました。
原発に反対すると嫌がらせがひどいという話も聞きましたので、覚悟して地域の皆にも伝えました。実際に、私の寺には10年間4時間おきに夜中も無言電話が続きました。人が亡くなったらすぐかけつけるという風習の地域ですので、電話が鳴ったら夜中でも出ないといけません。いやがらせの手紙は何百通も来ましたね。
広川 電話に出られることが多かった奥様は、電話に出るのが楽しみになってきたと言っておられますね。
塚本 妻をはじめとした女性たちが、嫌がらせに負けずに非常にがんばってくれました。それがなかったら止められなかったと思います。
広川 見張り小屋を作って皆で関電の行動を監視していたそうですね。
塚本 はい。関電に測量をさせないためです。
また、原発の専門家を呼んで学習会を行いました。大阪大学理学部講師だった久米三四郎さんが最初で、放射能の危険性について詳しく教えていただきました。住民の人たちを誘っても「あんなところいったら大変やぞ」などと言われましたが、20人ほどが来てくれました。小出裕章さんにご連絡して来ていただいたのも、彼の影響です。
広川 この秋、西宮・芦屋支部でアイリーン・美緒子・スミスさん(環境活動家)にご講演いただくのですが、彼女も「珠洲で僧侶の方々の中に入って、一緒に原発建設反対のビラを配った」と仰っていました。
塚本 はい、アイリーンさんにも来ていただきました。実は昨日(7月2日)、国会議員会館で反原発の院内集会があり発言したのですが、そこでもお会いしました。
電力会社の攻勢に対抗
広川 石川県には今回の地震で大きな被害を受けた志賀原発があります。こちらは珠洲原発より早く建設計画が進み、1号機が88年に着工され、93年に稼働しています。塚本 志賀原発周辺地域でも、建設計画地に住民が共同で土地を購入して計画を阻止しようとしました。しかし、北陸電力がその土地を計画から外し、建設を進めてしまったのです。それを見ていた私たちは、共有地は近くに固めるのではなく、まばらに作らないといけないと考え、実際にそうしました。
ただ、共有地を作るのは非常に難しいことでした。住民同士で土地を共有するというのは「一人だといつ電力会社に売るか心配なので一緒に持ちましょう」ということです。相手を信頼しているのかという話にもなり、不信を生みかねません。
広川 そのように共に行動しないといけないほど、原発建設推進の動きは強かったんですね。
塚本 珠洲の場合、まずは「珠洲方式」という、住民と電力会社とのやりとりの仲介を行政が行うというやり方で、計画が進められようとしました。しかし、これはうまくいきませんでした。「私のこの田んぼはいくら?」と具体的な話となると、市役所職員は答えられません。すると、電力会社が入ってくるようになったのです。
原発の必要性を説明する会なども開かれました。忘れもしません。最初にジャーナリストの俵孝太郎さんが話をするというので聞きに行ったんですが、「お前ら」と始めるんです。「お前らからもらっている税金は微々たるもの、やっとお前らが国に役に立つときがきた」「原発はいいことなんだ」と。失礼で、われわれを馬鹿にしていると思いましたね。
そして実際に動くのは関電社員ではなく、原発建設の入札が決まっていた清水建設系の会社の社員でした。何度も訪ねてきて、直接来たら絶対に会わないのですが、お寺の門徒さんを通じて会ってくれと言われると会わざるを得ません。彼らは入ってくるなり、「塚本さん、原発に賛成してもらったら、ばーんとお寺も庫裏も建て直します。3億円あげます」などと言います。私は「立派な建物があれば立派な寺というわけではありません。どんな人が住んでいるかで寺ができるのです」と返しました。妻は通帳を示されて「この通帳に一桁増えるんですよ」などと言われたそうです。
広川 そんなやり方をしなければ作ることができないということであれば、原発建設は非常に不正で危険なものだと思います。マイナ保険証もそうで、絶対的な必要性がなく使う人が少ないので、「保険証として使う人が増えたら、何十万円やる」と平気で言うようなことを国がします。
塚本 建設計画地の住人は、珠洲市の中心街で何を買っても食べても「高屋のだれだれ」と言えば無料になり、病院に行きたいというと迎えが来たということがあったようです。
私が市街地のお店で食事をしたとき、店員さんが「かーさんにつけときますね」と言われて、女将さんがあわてて「塚本さんにそれを言ったらあかん」と言われたのを聞いて、ぴんときました。
広川 「かーさん」とは関西電力のことですね。
塚本 はい。他にも当時、「3せる」「5せる」という言葉がありました。「飲ませる」「食わせる」「握らせる」。これで大体の男は落ちる。それでも落ちないと、「抱かせる」「えばらせる」。これで皆落ちると、彼らはそんな哲学を持っていたのです。
住民は皆、賛成反対は別として、「なんでこんな田舎につくるんだろう。大都会に作ればいいのに」「こんなところに持ってくるなら危険なものなんだろう」という思いはあったでしょうが、こういうやり方で推進派を増やしていったのです。
広川 疑問を持っていても、電力会社がいろいろと攻勢をかけてくるなかで、住民は賛成・反対で分かれてしまいます。
そのなかでも、塚本さんは「推進派の人を悪く言ってはいけない」との立場を貫かれたと伺っています。
塚本 はい。「原発はだめだが、その人のことは悪くいうな」と徹底していました。
なので、計画の凍結が決まったら、分かれていた住民もすぐに仲良くなりました。
広川 分断がはかられるなかで、何が本当に大切なのか、よく考えて行動していくことが大事だとよく分かります。
「能登は優しや土までも」?
広川 嫌がらせや金などさまざまな原発建設推進の圧力がかかるなかで、塚本さんたちがそれを跳ね返す力はどこから来ていたのでしょう。塚本 私にとっては、平等な世界を願うという親鸞聖人の教えでした。多くの人にとってはやっぱり仕事、生業から離れたくないということが強かったと思います。
印象深い言葉があります。石川県は保守王国で、市や県、国の言うことに逆らってはいけないと黙っている人が多いと思います。あるとき、同じ真宗の住職で、兵庫県たつの市におられた藤元正樹さんに「能登は優しや土までも」という言葉があると言ったら、「要するに人殺しですね」と言われました。意味が分からず「どういうことですか」と聞くと、「議論しないということでしょう。自分の人格も相手の人格も育たない」と。
広川 「能登の優しさ」とは本来的なやさしさだと思いますが、原発計画を巡っては藤元住職の言葉のような状態だったわけですね。
塚本 そうです。珠洲に原発をという話があった当初、私は原子の力を発見したアインシュタインは何ということをしたのだと思っていました。しかし後に、彼が死ぬ前に「世の中を悪くしようという人が世の中を悪くしているのではない。悪いことを見たり聞いたりしている私たちが口をつぐんでいる。それが世の中を悪くしている」と自分のことを含めて言っていると知って、すごいなと思いました。
広川 行動しないといけないということですね。これらの言葉が原発反対の運動のなかでずっと響いていたのですか。
塚本 響いていました。やはり原発は本当に人を差別するものだと思います。
広川 今回の地震で、もし珠洲に原発ができていたらと思うと恐ろしくなります。
今後の地域の再建についてどうお考えでしょうか。
塚本 よそと比べる必要はない、東京になる必要はないという思いがあります。
今、地震に遭って子どものところに避難した人が、珠洲へ帰ってきています。「私は泥触わっとらんとあかんわ」と。膝が痛い、腰が痛いと言っているばあちゃんたちが、海に岩海苔をとりに行ったら、畑に行ったら、誰もそう言わなくなる。そして隣の人が困っていたら助ける、本当にいい地域なんです。まずは漁業の再開のため、早く港が使えるようにしてほしいと思います。
広川 それが地域の本来の姿だと思います。生業の復興をこころより願います。
原発をなくすため、本日伺った話を今後の活動につなげていきたいと思います。ありがとうございました。