環境・公害対策部だより
保団連公害視察会 参加記
2012.12.05
見えた津波の傷跡
見えない放射能汚染の被害
環境・公害対策部長 森岡 芳雄
保団連は11月3、4日に福島市、二本松市内で公害視察会を開催し、全国から50人が参加。兵庫協会から林祐介・川西敏雄両副理事長、森岡芳雄・森下順彦両理事、坂口智計評議員が参加した。また、兵庫協会は3日の視察会前に独自企画として、南相馬市、飯舘村を訪問した。森岡先生の参加記を紹介する。
私にとっては東日本大震災以後、初めての福島訪問。3日、仙台空港ロビーで計測した空間放射線量は神戸のそれと変わらない。
兵庫協会で企画して、仙台空港からレンタカーで沿岸部の地道を岩沼市、相馬市、南相馬市、飯舘村を経て福島市へ行くことになっていた。空港近くのレンタカー事務所には、津波水没ラインが壁におよそ2mの高さでひかれていた。海岸線近くであろう場所に、点々と弱々しく取り残されて立つ松の防風林。その手前から広がる広大な原っぱ。
除塩作業中と書かれた旗とともに現れる、きれいに整地された田と一区画分うず高く台形に盛られた削り取った土山。ところどころに大量のがれきの山。原っぱの中に垣間見えるコンクリートの基礎…ぽつんと1、2階相当部分が抜け落ち、3階以上は何もなかったかのように建つ現代風の小学校校舎、体育館…。この場にどれほどの集落があったのか、人々の生活があったのか、想像するも及ばない…。
南相馬市から大町病院の藤原珠世看護部長の案内で飯舘村を目指す。徐々に確実に上昇する放射能測定器の値。紅葉の始まった美しい里山が目に入る。空間放射線量は0・6μSv/hを超え、1μSv/hを超え、これまでとは明らかに違う。山肌が近づくと空間放射線量はなお上昇する。
飯舘村特養ホームは、村役場のすぐ隣。この辺り一帯だけがしっかりと除染されており、居室内の放射線量は、0・2~0・4μSv/h。居住制限地域の飯舘村にあって、外出しないことを条件に居住を許された特別な施設。90人近いお年寄りが70余人の職員に支えられて暮らしていた。
村役場前には放射能モニタリングポストがあり、0・64μSv/hを示していたが、10mも離れていない村役場の玄関前では1・3μSv/h。出会った全村見守り隊の方が、モニタリングポストの現実を解説してくれた。
役場の裏手に周辺を除染した際の汚染土とおぼしきものがシートをかぶされ、危険立ち入り禁止の立札とともに周囲を柵に囲まれて置かれていたが、その周辺は3・5μSv/h。
飯舘村を後にして、公害視察会会場のホテルへ向かう。飯舘村では車は走っているが、家々に人の気配はなく、郵便局も信金も時間外のような雰囲気で日常生活が止まったまま。
福島市内は0・4μSv/h程度。フォトジャーナリストの森住卓氏による記念講演では福島の人々の映像、酪農家の方々の苦悩が映し出され、私の頭の中で福島への道中に見てきた光景から時計が逆回転していった。
4日、二本松市城山安達運動場にある浪江町の人々の避難仮設住宅を訪れた。城山にあるグラウンド下手前の斜面をバスが上って行こうとすると、車内でも連続して計測していた空間線量が0・3μSv/hが0・6μSv/hへと跳ね上がった。上り詰めた先にあった仮設住宅は阪神・淡路大震災を再現させた。
野球グラウンドを思わせる場所に整然と並ぶプレハブ住宅。除染されたであろうグラウンドの上に敷き詰められた砂利石の上に建つ。通路はすべてアスファルト舗装。仮設住宅の一角に建つモニタリングポストは0・17μSv/hを示していたが、実測した避難所内はどこも0・3μSv/h余り。
グラウンドの土手に上がっただけで0・4μSv/hを超え、子どもがしゃがみ込むような土手の下草から10センチメートルほどでは軽く1・0μSv/hを超える。土手の上をよちよち歩きの幼児が家族と一緒に歩いていた。
来る時にバスが上ったグラウンド下の斜面沿いの道路では0・9μSv/hを超え、現地の方の勧めで行った、子どもが遊びそうな近くの雑木林の枯葉だまりでは、直上で4・0μSv/hを超えた。
仮設住宅の一角にある仮設浪江町津島診療所の室内を見学。診療所の入り口近くにあった浪江小学校からの壁新聞に心が痛んだ。診療所横のプレハブには、ホールボディーカウンターが設置されていた…。
帰路の飛行機から富士山が、諏訪湖が見えた。青山高原に建つ20基の風力発電施設も見えたが私の心は重かった。
今回の視察で以前にもまして「何ができるのか?!」と、ずっと自らに問い続けることになった。